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第26回

◎ 佐野常民という人

 佐野常民、若いときの名は栄寿という。尋常に進めば肥前佐賀藩の藩医を継ぐはずの人であった。文政5年(1823年)、佐賀藩士下村三郎左衛門の五男に生まれたが、藩医佐野常徴(つねみ)の養子となった。学業優秀で14歳にして弘道館内の特待生となり、20歳にして医師として一家を構えた。ところが25歳にして運命が変わった。藩主鍋島直正の命で、さらに蘭学の習得に転じ、京都、大坂、江戸と蘭学の大学者広瀬元恭、緒方洪庵や伊東玄朴に学び、西欧の科学知識を吸収していった。生涯の主な業績を挙げれば、1867年に開催されたパリ万国博には佐賀藩の代表として渡欧、1872年のウイーン万国博には新政府の要請で日本の副総裁として出向いた。常に科学技術の吸収を旨とし、製鉄事業、蒸気車、蒸気船の製造を目論んで成功し後世に道をつないだ。1878年、西南戦役のときは熊本で敵味方構わず負傷した兵隊を治療する博愛社を創設、後に日本赤十字社の初代代表になった人である。この時代の人が晒された運命の数奇さを感ぜざるを得ない。

 話はがらりと変わるが、今年(2005年)の夏、東芝は創立130周年目を迎えて「情熱の起源」というDVDを作成した。友人のIさんにこれを見せてもらった。NHKテレビの「プロジェクトX」風に編集された東芝の創立物語であるが、物語の解説者に小説「火城」の作者高橋克彦も登場させている。東芝の創始者の一人「からくり儀右衛門」こと田中久重が、上述している佐野栄寿から「時計を造って慢心しているのか」と、追及されるところを高橋克彦に語らせているのである。歴史に「若し」は禁句というが、若し佐野栄寿がいなければ、田中久重は京都の有名な一時計屋で終わったのかと考えた。このDVDによって猛烈に佐野常民という人を知りたくなった。すぐ本屋に直行して高橋克彦の小説「火城」を求めた。佐野常民のことはこの本とWEBで調べた。

 小説「火城」では、第二章の「非情の人」で、田中久重こと儀右衛門を登場させる。儀右衛門の履歴を紹介した後で、京都四条烏丸にある儀右衛門の機巧(からくり)堂に佐野栄寿が訪ねる場面を設定した。儀右衛門の造る「万年自鳴鐘」は、西洋時計の機能のほかに和時計、二十四節季、十二干支を表示する機能を持たせた。その「万年自鳴鐘」が京都で評判になり、松江の松平公が二千両で買うというのに、それを断ったというのでさらに評判は上がり、機巧堂の前には男女が群がっている中を佐野栄寿が訪ねていく。佐野栄寿は儀右衛門より二十歳以上も若いが、広瀬元恭の時習堂では先輩になり旧知の仲である。儀右衛門に「佐賀藩に来て蒸気船を造って欲しい」との思いを秘めている佐野栄重は、上述のようないちゃもんをつけたのである。その辺りの場面を以下に写してみる。

『「無尽灯は大工夫にござる。ですが万年自鳴鐘は田中どの一代の無用物。たとえ値が百両に下がったとて無用は無用」
「買いたいと申すお方がたくさんおられる」
「たわけ者はいつの時代にもおりますもので」
「無礼な!皆様、歴(れっき)とした大名である」
「万年自鳴鐘は機械ですから無用と謗(そし)られても構いませぬ。が、今のままでは田中どのまでも無用の人に成り兼ねませぬ。私はそれを心配しておるのでござる」
栄寿は凛と言い放った。・・・(略)』

『「田中どのは今どこの国に生きておられる。広瀬先生より蘭学を学ばれているお人だ。この国がこれからどうなるか分らぬ田中どのでもありますまい。攘夷(じょうい)などと世間は喧(やかま)しく騒いでおりまするが、今の日本にその力がなきことは先刻ご承知でありましょう。もし無謀にことを急げば日本は諸外国の属国となるのも必定。その認識を持たぬとあれば私はなにも申し上げませぬ。幾らでも万年自鳴鐘をお作りなされ。が、お持ちであれば簡単には許しませぬ。才あるお人が逃げるは、なによりの罪悪と心得申す。すべては国があってこその我ら。国を失いてなにが時計でござる」
話しているうちに栄寿は興奮してきた。儀右衛門を佐賀に誘うための演技のつもりだったが、涙が後から後から湧いて止まらなかった。・・・(略)』(著者高橋克彦は、佐野常民はよく泣いた人だと書いている。)

『・・・「乱暴な理屈にござりますな」閉口した口調で儀右衛門は笑った。・・・(略)』

 とはいえ結局、儀右衛門は栄寿の「佐賀藩に来て蒸気船を拵えて下され」という提案を受けて、まずは広瀬元恭の時習堂で一緒に学んでいる若い中村奇輔と石黒寛二を栄寿と共に佐賀へ先発させるのである。

 小説「火城」のあらすじを言ってしまえば、嘉永三年(1850年)から文久元年(1861年)までの十年そこそこの間に、永年長崎警備役として諸外国の情報を熟知する佐賀藩が、藩主鍋島直正の江戸末期の乱世を見通す洞察力で「藩」という枠内を超え「国」というレベルでの防衛を考える経緯を追う。もう一つは「人を育てることこそ最重要」と教育を充実させ、製鉄技術の習得、武器の製造、電信技術、海軍の強化と、これらを取り仕切る人々の養成に注力した様子を、佐野常民を中心にして描いたものである。余談になるが、鍋島直正、後に閑叟公(かんそうこう)と呼ばれたこの殿様は、節約した藩費をひたすら軍事力増強に注ぎこんだ。藩士には尊皇だの攘夷だのと、思想かぶれをしないように厳重に取り締まった。だから薩長土の討幕派藩からも幕府からも味方について欲しいと言われても、「我関せず」で応じることはなく、不気味な存在と思われていたようである。

 小説「火城」のクライマックスに著者高橋克彦が選んだシチュエーションは、佐賀藩精錬場の庭に線路を敷いて模型の蒸気車走らせ、藩主直正公はじめ藩の有識者の前で見事に成功させて見せた。閑叟公に「よくやり遂げた。見事な働きである。まさかこれほどまでに出来上がっていようとは・・・儂(わし)はそちたちを誇りに思う。」と言わしめるところであろう。「火城」という題名は、その閑叟公に「火城とは、城壁の周囲を松明(たいまつ)で明々と照らし出させて防御することを言うが、火とは先を照らす灯でもある。佐賀藩を先導する者どもこそ火城ではないか。おまえ(佐野常民)の火が、からくり儀右衛門という火を呼び寄せたのだ。」と語らせているが、これである。

 高橋克彦はもう一つの仕掛けとして、彦根藩井伊直弼に仕えた長野主膳、土佐の漂流者ジョン万次郎、加賀の廻船問屋銭屋五兵衛、佐久間象山、吉田松陰という当時を代表する人物を佐野常民や田中久重に絡ませながら、黒船到来によって混乱する日本の将来を如何に構築しようとしたかを描いた。長野主膳の考えの中に、将来の日本を通商国家として成立させる主張があるのは興味を引くが、ここでは割愛する。また、推理作家らしい高橋克彦の面目を示すのは、佐野栄寿が江戸の伊東玄朴塾「象先堂」で学び、塾頭を務めるまでになっていたのに、塾の蘭学辞書「ズーフ・ハルマ」を質入れするという事件を起こしている。金に困るはずのない栄寿が何故こんな事件を起こしたのかの推理も興味深いが、これも割愛する。是非とも著作を直接手にされることをお勧めしたい。

 今回、ここに書こうとしているのは、佐野常民の挑戦に発奮して佐賀藩まで行き、鉄の精錬、蒸気車の模型や蒸気船を作り、後に東芝の前身である芝浦製作所につながる田中製作所を創立した田中久重の生涯を考察することである。田中久重は蒸気車の模型を造り上げた後も佐賀藩に残って蒸気船の製造や電信機の作成までを手がけ、その後久留米藩に帰郷したものの、御一新の混乱を経て明治6年(1874年)、すでに75歳になっていたが、明治新政府から電信事業への協力要請が届いて、跡継ぎの田中大吉、弟子の田中精助と共に上京、上述の田中製作所を作ったのである。「東芝百年史」には、東京新橋南金六丁目(現在の銀座八丁目)設けられたレンガ造り二階建ての店舗と工場には「万般の機械考案の依頼に応ず」と大書した看板をかかげてあったと誇らしげに書かれている。130周年を迎えた東芝発祥の源である。

 さらに東芝百年史にはその後の田中製作所が、電信機、発電機、電灯用器具類、海軍兵器、蒸気機関、鋼製耐震煙突などを造っていた様子が書かれている。主として海軍省、逓信省からの発注に頼り、民間からの依頼の少なかった田中製作所は、海軍省や逓信省からの発注が途絶えると、たちまち業績不振に陥り、三井傘下に吸収され芝浦製作所と改名してしまう。電気事業が漸く国内で盛んになるとみるや、電気機械の製造に特化していったとある。この後も東芝は何度も好況期、不況期を味わったようだが、日本に存在する伝統ある製造会社の殆どは、おそらく東芝と変わらない経過を辿りながら今日の隆盛を保持しているのだと思う。「企業年齢はそこに勤める人の叡知と努力で老いることはない」というのが応援団子の考えであるが、これまで長寿を保ってきた会社は、たとえ危機存亡の事態に遭遇しても、対応し得る最善の手段を講じる能力やその能力を発揮できる環境を有しているのだと思う。

 佐賀藩を例にすれば、藩主鍋島直正公の実施した藩士への教育、他藩の叡知を導入する先見性、これに応じて佐野常民たちの果たした役割、乞われて出向いた田中久重たちの勇気と成果、あるいは彼らの指示通りに事を運んだ多くの工夫たちの技術レベルの高さ。いずれも夫々が自らの役割を果たすべく存在し、その使命を果たすことによって自らの存在を証明したということになる。この話を現代の会社組織に置き換えると、仕事をするべく集まってきた人々が、その目指すべき目標を熟知し、それぞれの役割を全うし、その働きによって評価を受ける。こうした基本的な事業の循環機能が狂うことなく作用していることが大切なのだと思う。時を経て事業がスパイラルに発展しても、それによって働く人が増加していくとしても、基礎となる循環作用は何ら変わることはない。

 時に、一人の人間の超能力によって、起死回生の業績回復を果たしたというような成功物語を、新聞や雑誌などで見かけることがある。果たして本当だろうか。現実に進行している事業推進の中で、劇的な話などは絵空事であるとしか応援団子には思えない。事業運営はもっと地道なことの積み重ねであると思う。だから超能力者を造り上げてしまうような体質の会社は何だか「危ないなぁ」と思うし、とかく超能力者が何かと話題になる企業に限って言えば、その企業トップマネジメントが「自企業の真の目的を明確に掴めていない」か、「本気で企業運営に携わっていない」ということにならないか。今回話題にあげた東芝で言うなら、「万般の機械考案の依頼に応ず」という創設以来の意志を、現在まで貫いているとすれば、歴代の東芝人に埋め込まれた遺伝子(DNA)は、時代の変化によって造り出す商品が変わっても、あるいは製造の方式が変わっても、現東芝人の一人ひとりの体内で地道に着実に不変、不休の働きをしているはずである。

 Iさんの見せてくれたDVDから、佐野常民の熱情を思い、佐野常民の情熱にこたえた田中久重の「ものつくり」精神力を感じ、東芝130年の歴史を考え、これから日本企業とそこに働く人の道程を想像してみた。秋の深まっていく中で、胸が熱くなるものを提供していただいたIさんに感謝しつつ筆を擱く。(応援団子A)

参考文献 高橋克彦著「火城」(平成13年11月初版発行、角川文庫)
     司馬遼太郎著「酔って候 幕末藩主伝」(昭和47年4月十刷、文芸春秋社)
     東京芝浦電気株式会社発行「東芝百年史」(昭和52年3月)
     日本経営史研究所編「中上川彦次郎伝記資料」(昭和44年10月、東洋経済)

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