良寛にとっては二十年近い時間を経て帰ってきた故郷の越後であったが、生まれ育った出雲崎を素通りしてさらに北上、寺泊の郷本(さともと)村の空庵(塩焚き小屋であったらしい)に住みついたという。天気さえよければ托鉢に出かける乞食の暮らしは不変。ぼろぼろの僧衣をまとって市中に晒すその姿は異様であっても、良寛はすでにわが身を天真に任せてしまっており、行雲流水の如く騰々としていたと思われる。
仮住まいをしていたその塩小屋から火が出て、村人に捕まり、土埋めにされかけた話が伝わっている。埋められようとしている良寛を、小越仲aが助けて家に連れて帰った。仲aの「どうしてされるままに埋められていたのか」という問いに、「みんながそう思ってやりはじめたことだから、それでいいのです」というような返答を良寛はしたらしい。そして、習字か読本でもしていたのだろうか、良寛は小越家の子供達に字を教え、また一緒に遊び始めたと。この辺りの様子を水上本(水上勉著「良寛」)には
「この良寛に、仲a氏はあきれたろうが、よく考え直してみると、答えのふかさに足もとを照らされたのである。乞食放浪の男が、無所有、無私の境涯こそ最高の生活だと言外に説いてみせるゆるぎのない顔を見せた。仲aでなくても、びっくりするのが当然で、良寛のただ者でない眼光が想像できるのである。」
と書かれている。
円通寺時代にも盗人に間違えられて掴まったことがあり、上述と同じような目に会ったことは前々回にも書いた。「随縁且従容(縁に従ってしばらく流れの中に身をゆだねる)」という成り行きに任せて何のわだかまりもない修行果は絶対であり、国上山の五合庵に住むようになってからの良寛は、さらに透明感を増したように思える。騰々兀々(とうとうこつこつ)として穏やかなうちにもゆるぎなく、人には慈愛をもって接し、良寛禅の到達点に近づきつつあったと思う。とはいえ、孤独な独居の寂しさとふっと現れる己が心の脆弱さを身底に沈めており、夜は香を焚き、静かに坐禅を組み、読書にふけり、詩を書く姿を想像するにつけ、辺りには何か憂いの漂う気配に満ちていたのではないか。そんな良寛の暮らしを感じる幾つかの詩を見てみよう。
昨日城市に出で 乞食して西また東す
肩痩せて嚢の重きを覚え
衣単(ひとえ)にして霜の濃きを知る
旧友 何処にか去りし
新知 相逢うこと少(まれ)なり
行いて行楽の地に到れば
松柏 悲風多し』
(意訳)「昨日も町に出てあちこちと行乞の一日であった。痩せてしまった肩にはかけている頭陀袋も重く感じるし、ひとえの衣には霜の寒さが伝わってくる。昔の友は何処にいるのか会わないし、新しい知人にも逢うことは少ない。嘗て賑わっていた処に来てみると、松柏に吹き付ける強い風は泣いているように聞こえて悲しい。」
『終日食を乞い罷んで
帰り来たって蓬扉を掩う
炉には葉を帯ぶるの柴を焼(た)いて
静かに寒山詩を読む
西風微雨を吹き
颯々(さつさつ)として茅茨(ぼうし)に灑(そそ)ぐ
時に双脚を伸ばして臥し
何をか思い又何をか疑わん』
(意訳)「今日も一日、托鉢乞食を終え、帰ってきていつもの古びた戸を閉める。炉に葉のついた柴を焚きつけておいて、寒山詩を読み始める。西風は細い雨を運んできて破れ庵に吹きつけくる。構わず両足を伸ばして寝転んだりしてやすらぎを感じているが、こうした貧しい身の上であっても、何の不満もなく疑問などある訳がない。」
『心水 何ぞ澄澄たる
之を望めども端を見ず
一念わずかに暼起(べっき)すれば
万像 其の前に堆し
之に執して以て有となし
之に乗じて永く還らず
苦しいかな狂酔子
意(つい)に十纏(じってん)に繞(まつ)わらる
(意訳)「心の水は本当に澄んでいるか。心の水を澄ませていたいと望んでいても、心の端を掴むことは出来ない。わずかにでも一念が起これば、それが派生して幾多の妄念を生ずることになる。そしてこれに執着してそこから抜け切れず、澄んだ心のところには還りつかない。苦しいかな迷いある凡人よ。その挙句に多くの悪業にまとわりつかれるのである。」
良寛が寒山詩を好み、荘子を読んで思索に耽っていたことは、多くの文人の著作の中に見られるところであるが、竹村牧男著「良寛の詩と道元禅」(大蔵出版)にも寒山詩と良寛の上述の詩とを比較しているところがあり興味深い。寒山詩では「我が心は秋の月の碧潭に清くして皎潔たるに似たり」と、もともと心の本体は円満清浄の明鏡の如きもの考えるのに対して、良寛は上述のように「心が澄むことはない」と表現する。「心の在り様の表現では、良寛のほうが寒山詩を超えている」と、竹村は書いている。またここに出てくる「十纏」とは、仏教語であるが、嫉妬、しみったれ、わるさ、無慚、恥知らずなど、十の悪業を挙げ、寒山詩にも「汝、道を慕う者に語(つ)ぐ、慎みて十纏に繞わる莫れ」というのがあると記されている。
托鉢を終えて帰ってきた夜の五合庵の暮らしを物語る代表的なものとして全ての人が認めるのは、「読永平録」ではなかろうか。長い漢詩なのでそれをここに写すのは省くが、春夜、坐禅を終えても良寛は寝ることができなかったのであろうか。独居の寂しさを慰めるべく道元禅師の「正法眼蔵」の抄録を読んで、円通寺時代を思い出したことを綴ったものである。
『円通寺で修業を積んで、自分自身としてはある段階まで修行が出来ているのではないかと思っていたとき、国仙和尚に請願して正法眼蔵を読ませてもらったところ、それまで独学で身につけたことの多くが未だ到っていないことを覚り、和尚の元を辞して行脚を繰返して「正法眼」をこれまで何度学んできたことだろうか。今これを手にとって祖師の志を復習して見るに、世にある諸仏法に混じることなく、また玉石を論ずる人もなく、五百年来埃をかぶってきた。思うに後継の我らが祖師の説くところを理解できないのでは仕方のないところだろう。今、祖師の志を感じて昔をしのぶものの、もはや遠く道をはずれており、燈火の前で涙が止まらない。・・・』
と続いていくのだが、良寛の心境は、祖師道元の釈迦を継いで仏教の本流である曹洞宗を世に知らしめるという純粋な志を知りつつも、その純粋さを継ぐことはなく挫折をしてしまっており、独り己が道を歩んでいる現状を思うにつけても、心に去来する思いの数々の整理は悩ましいものであったと思う。五合庵における良寛の修行は、少しでも油断をすれば現れる己が心の脆弱さを抑え込み、孤独に耐えることであったのであろう。読者はこの漢詩は是非味わって、良寛に思いを巡らしていただければと願うところである。
漢詩や歌の内容とは別に良寛には支援者や友人は少なからず存在した。その中でも解良(けら)家の叔問(しゅくもん)、栄重(よししげ)親子の支援は、良寛にとっては有難く貴重なものであったと思う。また解良栄重(けらよししげ)が書き残した「良寛禅師奇話」は、後世の人に良寛の資料を提供している。ここで栄重は「良寛師、身長は高いが痩せていて、顔は鼻筋の通った涼しい切れ目、温良で厳正、神様か仏様のような人である」と、最大級の誉め言葉である。さらに「良寛師が我が家に二、三日宿泊した時には、家人はすべて和やかになり、家中に和気が漂っている。良寛が帰っても、数日の間はその和気が消えないで残っている。良寛さんと話をすれば家人はみんな清々しい気持ちになる。」と、良寛が周囲に与える具体的な暖かさについて語っている。
良寛の思いやりのある眼差し、慈悲のこもる言葉は、「正法眼蔵」第二十八巻に残る菩薩四摂法(ぼさつししょうほう)の「愛語」から来るものと思われる(菩薩とは「菩提薩た」の略であり「修行に励む仏道者」と意訳してもよいと思う。
「た」は土へんに「垂」と書くが、パソコンでは送信できないので「菩薩」とする)。余談ながら、吉野秀雄著「良寛」(アートデイズ社)の表紙裏の装丁には、良寛が四摂法から写した愛語が使われていて「愛語ト云ハ衆生をヲ見ルニ先ヅ慈悲ノ心ヲオコシ顧愛ノ言語ヲホドコスナリ・・・」と、片仮名を使って書かれた文字は、温かくて優しく読みやすい。
唐木順三著「良寛」(筑摩書房)には「愛語と言うは衆生を見るに先ず慈悲の心を起こし、顧愛の言語をほどこすなり。おおよそ暴悪の言語なきなり。世俗には安否を問う礼儀あり。仏道には珍重の言葉あり、不審の孝行あり。・・・(略)」の全文と、唐木自身が私流とことわりをつけた現代語訳があり、「愛語とは、菩薩が衆生を見るとき、まず慈愛の心を発して、その時、その人に応じた顧愛の言葉を施すことである。おおよそ暴言、悪口を口にしない。世俗の中にも、長上の者に対して、その日その日の安否を伺うというような礼儀がある。また仏道には珍重といって、相手の健康を願う挨拶の言葉がある。また長上者のご機嫌を伺うという年少者の礼儀がある。・・・(略)」と続いていくが、「衆生を慈念すること、なお赤子の如し」と、「徳のある者は誉め、徳のない者は哀れむ」思いやり、いつくしみの心を忘れぬことを説いている。
菩薩四摂法は「一般人に対する仏者の接し方」を説いたものである。「愛語」のほかには「布施」、「利行」、「同事」の法があり、「布施」とは、貪らずへつらわず施すことを言い、「利行」とは、身分の高低、全ての衆生に対して役に立つことであり、「同事」とは自他の境を外して、同じ立場に立つこと、同じ目線でものを見ることである。今、良寛の場合で考えると、良寛にとって「愛語」こそ、衆生に対する「布施」であり、解良栄重のいう解良家に溢れていた「和気」は、良寛の言外の「愛語」であろう。また、良寛が托鉢の途中で、子供達と一緒になって「手毬遊び」や「かくれんぼ」に興ずるのは、周囲の大人たちには奇行に見えても、それは「同事」であり、やがて子供達が成長するにつれ、身に降りかかってくる苦難、例えば、手毬遊びに興じている娘達の何人かは身売りされていくであろうし、流行の病に薬もなく死んでいく子もあるだろう。今、この子達と同じ目線で遊びに興ずることは、良寛にとっては子供達に出来る、せめてものの「布施」であったと応援団子には思えてくる。
良寛には心の支えになる友人もいた。大森子陽塾時代の学友に良寛は支えられた。江戸からも良寛に会うためにひとは訪れた。多くは「良寛の書」と「歌」の友人であり、ここには写しきれないが、良寛の残した詩がそれを物語っている。
老後の死期を迎えるまでの数年は、良寛を慕う貞心尼との出会いがあった。貞心尼との歌のやりとりは良寛をこよなく慰めた。死の直前には身の回りの世話もしてもらった。その貞心尼との歌のやりとりの幾つかを写してこの稿を終わりたい。
(応援団子A)
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