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第10回

◎ 奥 克彦著「イラク便り ―― 復興人道支援221日の全記録」
   (2004年1月30日 初版第一刷発行 株式会社産経新聞ニュースサービス)


  謹んで奥大使、井ノ上一等書記官のご冥福をお祈り申し上げます。

  2003年11月29日、イラク北部のティクリートで開催されるイラク支援会議に出席のため、現地に向かう自動車走行中に、無念にも凶弾に散った。お二方は日本国の代表としてクエートから戦争直後のバグダッドに入り、人道復興支援のために東奔西走して活躍中であった。奥大使は着任当初からのイラクの状況を外務省ホームページに「イラク便り」として発信し続けられた。このほど産経新聞ニュースサービス社により、2003年4月23日の初信から最後の発信となった11月27日までの221日の全記録が、一冊の本になり発刊されたので、今回はこれを
 採り上げることにした。この本の冒頭に川口外務大臣がお二方に寄せた哀悼の言葉の中で、「本書の印税は奥大使、井ノ上一等書記官のご家族のご意志により、イラク復興支援事業に寄付される予定とのことである。」とある。今ここにお二方を偲んで、日本人が果たさなければならない役割と心構えを、奥大使が発信された言葉の数々から考えてみたいと思う。奥大使の「イラク便り」は、今も外務省ホームページに掲載されているので、そこで原文を見ることが出来る。なお以後の文中では、奥大使がイラク中を縦横無尽に活躍されていた当時の「奥参事官」と呼称させていただくことにする。

    『イラクは砂漠と石油の国、というイメージがあるかもしれませんが、チグリス、
     ユーフラテス川が生み出す沃野に恵まれた農業国でもあるのです、農民は土地と
     深く結びついて生活をします。収穫がキチンと得られる、ということは農民が仕
     事に戻って日常生活が回復されると言うことですから、これこそが平和の到来に
     他なりません。』
    (17便 5月9日「ダ・シルバ国連イラク人道調整官」から抜粋)

    『バグダッドから南に約130kmのところにバビロンの遺跡があります。(中略)
     これが「目には目を」で有名なハンムラビ王を輩出した古いバビロニア王朝です。
     ところがこれらの古い遺跡はユーフラテス川が氾濫したときに川底に沈んでしま
     ったようで、今日見られるのは、その上に築かれたネブカドネザル2世などで知
     られている新バビロニア王国の遺跡です。「新」といっても紀元前七世紀ですか
     ら、奈良の大仏さんも全く及びません。』
    (25便 5月17日「バビロンの遺跡にて」から抜粋)

  奥参事官の目に映っているイラクは、日本よりもはるかに長い歴史を持ち、悠々たる大地に開けた農業主体の国であり、その農民が仕事に戻って収穫する日々が続いてこそ平和が到来するのだと確信しているのである。そういう意味では石油産出国イラクとしての歴史も、フセインによる独裁体制もイラク国民の側に立てば、ほんのここ数十年の出来事と言えるのかもしれない。この度の戦争がイラクで産出する石油を、米国がコントロールしたいがためのものであるというのが、大方のマスコミの意見となっているようである。奥参事官は5月27日の35便「イラクの石油」
 で、埋蔵量世界第二位を誇るイラクについての意見を述べており、石油行政の問題を説明されている。連合国側の事情の中には、それも一つの要因としてあるとは思われるが、イラク国民にとっては、フセインの圧政による苦しみから解放されて、下からの民主主義を醸成し、新たな国家建設をするということが大きな解決策であり、まかり間違えば、フセインが「テロの温床」を作りかねないという懸念が、世界中の最も大きな関心事であったように思うのだが。

    『でも救いはあります。それは子供達の輝く眼です。イラクの子供達は皆パッチリ
     とした目で生き生きしています。教室は狭く、長椅子に6人、7人が詰めて座っ
     て授業を受けている有様です。これから盛夏に向かい、教室は60度近くに気温
     が上がるそうです。勿論、扇風機はありません。それでも学校へやって来て、日
     本の支援に触れてくれれば、いつか大人になってもその記憶が心に蘇るのではな
     いでしょうか。何時の時代にも何処でも、子供達の目は純粋に好奇心を語ってく
     れます。イラクの子供達のきらきらした目を見ていると、この国の将来はきっと
     うまく行く、と思えてきます。』
    (22便 5月14日「元気なイラクの子供達」から抜粋)

  奥参事官は兵庫県宝塚の出身であり、県立伊丹高等学校、早稲田大学卒業後、外務省に入省されている。高校、大学を通してラグビー部に所属され、名門早稲田のラグビー部では、猛練習で有名な菅平の夏合宿を経験していて、「あれを思えば外交官試験などは」との感想を持たれたとも聞く。実は、東京兵庫県人会会報「ふるさとひょうご」89号(平成16年2月号)には、「県人会会員 奥克彦大使の"熱い思い"を忘れない」と題して訃報と在りし日の
 奥参事官の活躍が報じられ、上述の「元気なイラクの子供達」が転載されているので、余計なことかもしれないが紹介しておきたい。

  この22便の前段には、自分の地区の下水ポンプをはずして売り飛ばさなければならないイラク人の生活困窮振りを、「自分自身を略奪してしまっている」と奥参事官は嘆き、それでも子供達の輝く目に救いを感じ、日本はこの子供達に出来る限りの援助をすることが急務であるとの考えで、多くの学校に学用品を配って子供達を喜ばせた。5月6日の14便「サッダームがいなくなって本当に良かった!」にも井之上書記官と一緒に、ORHA(イラク復興人道支援局)の教育担当チームと幾つかの学校周りをしたことを伝えている。太平洋戦争後、自分の両親達が子供の時代には、UNICEF(国連児童基金)の支援で粉ミルクの供給を受けたこともあり、今度は日本が支援する番だと奥参事官は言う。表題になった「サッダームがいなくなって本当に良かった!」は訪問した学校で、井之上書記官を呼び止め、「これだけは言いたかった」と女の先生が発した言葉である。

    『ブレーマー大使のバグダッド到着に伴い、復興人道支援局(ORHA)から、連
     合暫定施政当局(CPA)に権限が移行しつつあるということをお話したいと思
     います。ですが、話はそう簡単ではありません。ORHAのガーナー局長にして
     みれば、自分としては、サッダーム・フセインが放逐されたイラクの行政を掌握
     して、なんとかイラク人による、イラク暫定当局(IIA:Interim I
     raqi Authority)を確立しようと全力を挙げてきたのに、治安の
     悪化、特に、略奪による公共施設の損壊、停電の頻発等々、自らの意向に反する
     ことばかりが立て続けに起こってしまい、これに対応する援軍も米本国から未だ
     到着せずに今日に至ってしまいました。(後略)』
    (38便 6月1日「今日からCPAだけが当局だ」から抜粋)

  奥参事官は現場を重視した人である。思いに反して事の捗らない焦燥感と、「援軍未だ来たらず」との不満が見え隠れするガーナー局長を語る上述の文章から、それを推察する事が出来る。奥参事官は「スピード」「連携」「調整」を重視して仕事を進めることを、「イラク便り」の中で何度もアピールしており、そこからも現場重視の姿勢が窺える。ガーナー局長の居心地の悪さと、ブッシュ大統領の指名を受けて登場したブレーマー大使の出番のなさは、結局、5月31日にガーナー局長がバグダッドを去ったことで解消される。そして、この交代によって登場した新メンバーの中には、日本の国際交流プログラム参加者がいて、日本が地道に積み上げてきた国際交流の成果であると紹介しつつ、「日本としてはORHAからCPAに看板が変わっても、イラク復興支援に注力するだけ」と、さらりと表現しているところにも、奥参事官のイラク復興支援に対する不変の精神が伝わってくるのである。

  しかし、この6月頃から情勢が変化して、支援活動の状況は一段と難しくなってきていたのではないか。6月5日の39便では、米陸軍空挺隊の治安維持活動をつぶさに報じ、翌6月6日の40便では、デ・メロ国連特別代表の登場が紹介されているが、これらのメッセージから前途の多難さが読み取れる。開戦以来、微妙になっている国連と米国の関係を、奥参事官は次のように伝えてくれる。「国連に対する期待が大きい一方で、安保理での議論を踏まえ、CPAとの関係を悪化させない範囲で徐々に、イラクの政治プロセスに国連としての関与の度合いを強めていく、難しい役回りですがデ・メロ特別代表ならやり遂げるでしょう。」と、そして日本の支援について「暫定政府すら立ち上がっていない現状では、大規模な技術協力は困難ですが、バグダッドでの旧交をもっと、大きな規模で、多くの人と暖めることが出来る日が1日も早く来ることを願わずにいられません。」と言う。奥参事官のこの言葉の合間から、復興事業の難しさと成就までの道の遠さが滲んでくるのである。

 こともあろうに8月19日、バグダッドのカナール・ホテルにある国連事務所の爆弾テロの被害に遭い、そのデ・メロ特別代表が犠牲となった。奥参事官は夏休みを終え、アンマンでバグダッド入りの待機中であったという。8月22日にはバグダッドに帰任して、上村公使と共にデ・メロ特別代表の棺をバグダッド国際空港に見送ったことを48便「デ・メロ国連事務総長特別代表の帰還」として伝えている。「残った我々がいっそう力を合わせてイラクの復興に尽力することが、せめてもの餞(はなむけ)でしょう。」と、奥参事官は母国ブラジルに旅たったデ・メロ特別大使の遺体に誓った。

  また、本書末尾に「外交フォーラム」2003年11月号に寄稿された「イラクの戦後復興における国連の役割」が掲載されているが、奥参事官はこの中で、国連の役割が不可欠であることを強調され、「国連は、米国色を前向きな意味で薄め、その結果、CPAの施策を受け入れやすくすることが期待できる」と言い、「この重荷は米国並びに連合参加国だけでは、いずれ背負いきれなくなる」と予想し、「その時、必ずや国連という機関の役割が大きくなる」と言う。「安保理の非常任理事国であるシリアやパキスタンを前面に押し立てて、イスラム勢力と非イスラム勢力との衝突ではなく、国際社会とテロとの戦いという構図をイラク復興の中で確立するところに、日本政府の果たす役割がもっとあるのではないか」と、そして「このような策を講じてこそ、最後までイラク復興に尽くそうとしたデ・メロ特別大使の遺志に沿うのではないか」と締めくくる。

  突拍子もないことを言うようだが、この奥参事官の上述論文を読んでいて、応援団子は幕末の坂本龍馬を思い浮かべた。龍馬が「大政奉還後の新政府と幕府との不戦」を主張していたことを思い出した。スケールこそ違うが、この時点における奥参事官の主張も、龍馬がそうであったように、戦争に関与している主たる当事者達からは、簡単にイエスとは言ってもらえる状況にはなかったであろう。最終目的を農業国としてのイラク国民の自由で平和な生活と、石油産出国としての工業的な発展においた場合、奥参事官が言われる「国連の元でのプラグマティックな解決策」はあるのではないか。

  終わりにもう一つ突拍子もないことを付け加えておく。奥参事官は留学中のオックスフォード大学でもラグビーの選手として活躍した人である。ラグビーにおける試合終了後の「ノーサイド」を深く実感している人である。「ノーサイド」というのは、お互いの価値観を認め合うところに成立するのだと思う。「戦争や政治とラグビーを一緒にするな」と言う人もあるだろうが、日本は奥参事官の主張していることを再吟味し、今までの行動を基盤としてこれからの行動計画を再構築し、イラクの復興支援に臨もうではないか。日本は何も一番にならなくていい。国際社会に示 すことの出来る誠意をもって、お役に立てば良いと思うのである。(応援団子A)

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