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第3回

 ◎ 高坂正堯著「宰相吉田茂」(中公叢書・1978年第10版)から抜粋

  『だが、吉田茂にとって、米ソの協調が破れ、対立関係が発生したことは、その両者の間に介在する日本の価値が増大したことを意味した。それは戦敗国日本にとって乗ずべき機会であった。かつてのすべての講和条約において、戦勝国の間には戦後処理をめぐる争いが発生した。そして、戦敗国の乗ずるところはこの対立なのであった。だから吉田は講和の時期が来たと判断したのであった。さらに、彼は安全保障の問題をより切実に考えていた。彼は中立地帯案の困難さを、すでにおこなった研究から十分に知っていたように思われる。』(本文51頁)

  前回、日本人が敗戦直後の荒廃を克服して来たにも拘らず、今や衰退の坂道を転がり始めていると応援団子は書いたので、今回も引続き高坂さんの著作から「宰相吉田茂論」を取り上げて、「転がり始めた衰退のスピードをいささかでも遅く出来ないか」ということに迫ってみたいと思う。「宰相吉田茂論」は、吉田が総理の座から退いて九年、新進気鋭の高坂さんが、敗戦直後という条件下での吉田政治を客観的に分析し、吉田が日本国内外の多様な変化の状
況に対応して果たした役割(功績)と、その後の日本政治に残した課題を論じたものである。この論文とその後発表した「吉田茂以後」「妥協的諸提案」「偉大さの条件」と題する論文を編集した「宰相吉田茂」(第十版)を応援団子は読んだ。この著書全体の概要は、吉田の頑固な心情が齎した日本社会への影響や、未熟な民主主義の発展過程の分析などを、吉田の哲学、学識、性向を織り交ぜて論じたものである。
 
  前回からの余勢を借りてもうちょっと言わせていただきたい。今回の言い分は、特に日頃ビジネス界の厳しい環境下で、事業推進に懸命に努力をされている若い人達に議論をしてもらうつもりで書いた。これまで日本では「餅は餅屋」と、政治家、官僚、ビジネスマン、商人、職人など、区分を決めてそれぞれが仕事をし、気がつけばそれぞれが閉鎖社会になってきている。それでもピカピカしている新鮮なうちは良かったが、時間が経過してあちこちにカビやコケがつき、それが瘡蓋になって随所にマンネリ症候群を発症させている。病は重たい。ここまでこびりついた瘡蓋
 を剥がし、日本を動かしている仕組みの底にひそむ毒素をさらけ出し、多少痛くても新しい血や皮膚を造る必要がある。そうしないと日本は前に進めないのである。「何を今更、古臭い話を」と面倒くさがらないで、周囲の仲間と問題の本質を掘り起こし、日本の将来を論議して欲しい。

  古臭い話に戻す。吉田茂は、戦前には外務次官、海外では中国の総領事、イタリア・イギリスの大使など重職を歴任、戦後は外務大臣、総理大臣を務めた。終始一貫「戦争に負けても外交に勝つ」を吉田は信条とした。上述に抜粋した文章は、首相として日本復活に心血を注いでいた昭和24年になって、いよいよ米ソの協調が崩れて冷戦状態が明らかになり始めたとき、先ず日本が米国を中心とした自由主義国家との講和条約を締結し、独立国家として再デビューを果たし、次には米国に日本国の安全保障を委ねて経済の活性化に専心することを一挙に解決し得る絶好の機会であると、培ってきた商人のような勘の鋭さから掴んだことを示している。「軍事力よりも政治的、経済的関係を国家間の基本にし、日本が世界に名誉ある地位を占めること」、これが吉田茂の戦前戦後変わらぬ信念であったと高坂さんは書いている。

  また話が逸れるがお許しいただきたい。上述文中の「中立地帯案」というのは、日本を囲む地域に非武装の中立地帯を作ろうと持ちかける案で、事実、吉田首相は有数の知識人を招集してその可能性を検討した。その結果、これは中国やソ連を巻き込んで中立地帯を設定しなければならず、それを両国が聞いてくれる可能性がないと判断して、日米安全保障条約締結の道を選んだのである。

  高坂さんがこの書に挿んだエピソードをご披露する。自由党総裁鳩山一郎の公職追放により、お鉢が回ってきた総理の座を、吉田茂は、前総理大臣鈴木貫太郎から受けた助言通りに、連合軍司令長官マッカーサーに対して「まな板の上の鯉」になると決め、包丁をあてられてもびくともしない見事な敗者ぶりを示し、食糧危機の迫ったある時、農林省の統計資料の数字に基づいて450万dの食料を輸入しないと餓死者が出ると陳情していたが、実際には70万
 dで事が足りた。誤差の大きさを責めたマッカーサーに対して吉田は冗談口を叩いた。「戦前に我国の統計が完備していたら、あんな無謀な戦争はやらなかったろうし、またやれば戦争に勝っていたかも知れない」と。占領軍に対して卑屈さは微塵も持たなかった実証である。新憲法発布、教育基本法制定、農地改革法案など、国内の反対と占領軍の強圧の中で新日本の建設に孤独な闘いを続けた。

  昭和26年9月、日米安全保障条約をセットにしたサンフランシスコ講和条約は、自由主義国家五十二カ国との間で締結された。この講和条約締結は共産圏諸国をも含めた全面講和でなければならないという理想を主張する知識人もいたが、熟慮の末に吉田は、英米の趣旨に沿った現実的な経済復興を主眼にした講和の道を選び、後に日本は高度経済成長の道を邁進し得たのはその功績と言える。が、残した幾つかの問題は、吉田が考えていたようには解決しなかった。一つは、新たな局面に対して再軍備を要請し続ける米国ダレス長官に対して憲法九条を楯にこれを断り、いずれ再軍備は経済復興の暁に憲法改正を含めて軍事力保持に向かえばと考えたが、これは計算違いであった。もう一つは、中ソはじめ共産圏諸国家との関係であるが、これらの国々との国交回復交渉は、一応は成立しているものの、未だにギクシャクした問題を残している。

  高坂さんは吉田の政治行動の態度について、「問題なのは、吉田が国民に呼びかけ、世論の力を集めて、彼の外交
 を支える力にすることを怠っただけでなく、それを嫌い、かつ軽蔑したことにある」と指摘するように、統治者とし
 て「自らの政治行為に対する責任は自らにあり」との覚悟は出来ていても、国民に説明したり相談したりすることを
 嫌っていたことである。これには吉田の「統治者は国民を扇動したり、あるいは統治者がその行為を国民の名におい
 て正当化したりしてはならない」という精神が強く働いていたことの証明にはなるが、ある時、高坂さんの「貴方は
 民主主義的でなかったと言われていますが、どう思いますか」という質問に対して、「私は自分の思うところをやっ
 ただけだ」と答え、民主主義は理論としては良いが、愚民におもねる政治家が出現するのは困りものだという考えを
 付け加えたという。ワンマン宰相と言われた真骨頂であろう。

  統治者が永くその座に居座り続けることは許されない。統治者の支配期間を保障する条件は一体何なのだろうか。
 時勢か、運の強さか、才能を含めた力量か、こうした諸要素が働き、絡み合って権力の保持期間は決まっているのだろう。結局のところ日本国民も当時の政治家も吉田茂に、講和条約締結以後、憲法解釈があいまいで、釈然としないままの防衛庁自衛隊の発足あたりまでは黙認したけれど、昭和29年、造船疑獄事件で自由党代議士の逮捕が続き、佐藤栄作(当時幹事長、後総理大臣)の逮捕に及ぶ時点で、吉田首相は法相に指揮権発動を命じて騒動が起こり、衆議院予算委員会で吉田首相告発動議を可決、抱える問題を解決する時間を与えられずに、ワンマン宰相のラベルを貼られたままに勇退に追い込まれた。国会軽視、国民無視の姿勢も講和条約締結までは許されたが運命も力量も尽きたことになる。吉田にとっては続く政治家に後を託したことになるのだが。

  吉田茂の残した問題とは、憲法改正、特に第九条の無理な解釈と中ソ国交関係の正常化問題、韓国問題であったと言ってよい。吉田茂以後の日本政治は、日ソ平和交渉、日中国交回復、日韓条約と歴代の首相により関係回復は進めて来たと言えるが、昭和20年8月までの清算が出来た上での解決策とは思えない。日米安全保障条約に守られながら、日本は高度経済成長の道をまっしぐらに進み、吉田が狙った経済大国の位置は一応確保したと言えるが、その後の国際社会における日本の在り方は、問題事項を避けるようにして曖昧な状態のままであった。こうした国の基本的な態度は、吉田茂が最も嫌った政治家の党利党略の中で、相変わらず常套手段の「先送り」を続けているばかりである。日本人が日本人であるべき矜持を、選挙の投票を気にする政治家の手に委ねるだけでなく、国民レベルで地に足の着いた検討をするときだと考える。

  高坂さんは「民主主義は『自己の運命を決定する強い力』と、民衆はひねり潰されてしまう『弱い存在』であるという民衆主義的な二面性を持つ。だから、日本の民衆主義的な見方では、民衆自らの手で何事かをおこなうことへの励ましも、提案も、批判もなくなって権力的なものへの批判だけが残り、『どぶ板が落ちているのも政治が悪いから、河が汚れるのも政治の貧困』という貴方任せの態度だけが横行してきた」と戦後日本の民主主義について振り返る。
 日本では「個人の自由」、「権利の主張」が大手を振って闊歩し、挙句の果てが自己中心的で、「政治が自分に何をしてくれるか、自分さえ良ければ」という風潮をはびこらせたことは否定できない。60年前からの歴史をしっかりと見直して、少なくとも、「世界に認知される独立国日本の責任ある態度」、「その国民としての責任ある態度」を明確に表出して、実行していく義務があると思うが如何だろう。(応援団A)

  (註)高坂正堯さんについて
  子供の頃からローマの歴史には熱中し、燃え落ちるカルタゴの街々を見ながら「勝ち誇るローマもいつかは同じ運命に見舞われるであろう」と呟いた、第三次ポエニ戦役のローマの勝利将軍スキピオの名言の虜になり、歴史書に没頭した。長じて母校京都大学で国際政治学者への道を進み、わかりやすい提案をされて活躍をされたが、平成8年(1996年)5月、62歳で早世されたのが残念でならない。(応援団A)

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