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           思いつくままに      (平成28年4月)

 司馬遼太郎さんの著作についてもう少し申し上げたいことがあります。司馬さんはその著作の随所で、登場人物たちの縁故や関わり合いの不思議さを、見事に抽出してくれています。例えば『坂の上の雲』では、明治維新が招いた士族崩壊の行く末を、伊予松山の秋山好古、真之兄弟と、真之の親友である正岡子規の生涯にフットライトを当て、子規の親友である夏目漱石まで登場させて物語を展開していきます。秋山兄弟の兄、好古は貧しい生活の中でも父母を助け、長じて日本陸軍騎兵隊に。弟の真之は兄の言いつけ通りに海軍に身を投じ、この兄弟の働きもあって日露戦争では、曲がりなりにも日本軍が勝つという、西欧諸国が驚嘆する奇跡を起こします。小説『坂の上の雲』の頂点の一つである日本海海戦でロシア大艦隊壊滅の場面では、日本海軍作戦参謀の一人である秋山真之が主人公です。司馬さんは本著の中で「真之は炒り豆をかじりながら作戦を練った」と書きます。

 歴史に「もし」の言葉が禁句であることは、百も承知しておりますが、もし兄好古から海軍学校進学の指示がなかったら、真之は正岡子規と共に、文学の道を志していたことも、本著には書かれています。正岡子規は芭蕉俳諧を執拗に追跡し、その成果として、芭蕉が晩年に到達した俳諧文学の独自性を見つけ出し、さらには現在に通じる近代俳句の創始者となります。もし真之の言葉通りであれば、子規と同じ道を歩んだか、あるいは子規の近くに居て、文学関係に何らかの功績を残したのではないでしょうか。余計なことですが、『坂の上の雲』が出現した昭和45年は、戦後の日本経済成長が軌道にのり、その成果の一つとして「大阪万博」を招聘した日本の人たちです。その日本人にもう一つの切り口として、「自分の足元をもう一度よく見直そう」と、戦後25年にして付着し始めた日本人の傲慢さに警鐘を鳴らす効力もあったのだと、本著を再読して今更ながらに感じました。

 それはさておき、今回は著作『明治という国家』の中から、万延3年(1860年)1月13日と18日にアメリカに向かう二艘の軍艦の話から歴史の因縁を採り上げます。13日に出発したのは軍艦咸臨丸であり、18日に出発したのは、帰国する米軍艦ポーハタンでした。この軍艦ポーハタンには、日米条約批准のために渡米する徳川幕府の使節である新見正興正使、村垣範正副使、目付役に小栗忠順と随行員数十人が乗船し、咸臨丸には艦長として勝海舟が、軍艦奉行木村喜毅には福沢諭吉も下働きの用人として乗船しました。徳川幕府の咸臨丸は、日本人にも海洋を渡航する力があるところを見せておきたいという虚栄心が働いていたでしょう。因みに司馬さんが『明治という国家』を採り上げた主題の一つは、明治という44年間の国家「日本」と、その後に誕生してきた大正、昭和の「日本国家」とは、似ても似つかぬものであったことのようです。

 日本史年表によりますと、咸臨丸は2月26日にサンフランシスコ港に入港、一行は5月6日に帰国しています。また新見正使以下の条約批准の使節は、3月28日にブキャナン米大統領と会見、4月3日には日米条約批准も果たしています。こうした幕府使節団の一行や咸臨丸乗員が米国の文明文化の在り様を、驚異の眼を皿のようにして学んでいるうちに、日本では万延3年3月3日に幕府大老の井伊直弼が桜田門にて惨殺され、日本の歴史は「明治」という時代に大きく回転をし始めた時期でした。

 司馬さんがここで抽出したのは、渡米随行者の中の小栗忠順、勝海舟、木村喜毅、福沢諭吉の時間的経緯の中での関わり合い、その因縁についてのことですが、応援団子も我流の考えを混ぜながらこの後を書き進めたいと思います。先ずは小栗忠順のことです。幕府での役職官称は「上野介(こうずけのすけ)」と呼ばれていました。現在の日本人は「上野介」といえば、忠臣蔵の討ち入りで赤穂四十七士に斬首された吉良上野介を、大半の人が想起すると思いますが、幕末の上野介も結果的には官軍に恐れられて首を落とされています。小栗上野介は帰国後、アメリカで学んできた製鉄所、鉄鋼所を建設することの急務を思い立ち、横須賀に軍艦ドックなどを含め造船所を造りました。幕末の戦争で徳川幕府が倒れても、この施設は明治維新後も日本建国に多大なる貢献を果たすことは、小栗上野介には十分に確信の持てていることであったでしょう。

 その小栗忠順の生涯を別の切り口から考察しますと、封建政権下での地位は、神田駿河台に屋敷を持つ徳川幕府代々の家禄2500石の旗本です。後述します勝海舟の家柄は、祖父の財力によって旗本男谷家の株を入手し、武士の資格を得たものです。ここには雲泥の差があると言わざるを得ません。方や幕府使節のナンバー3の目付け役ではありましたが、井伊大老が一番の働きを期待して派遣した目付け役でした。一方の勝海舟は咸臨丸艦長と言いながら役職は軍艦操練所教授方頭取です。船の正式な指揮官である提督は、勝海舟よりも7歳も年下の軍艦奉行の木村喜毅でした。福沢諭吉は軍艦奉行に頼み込んで咸臨丸に乗艦させて貰ったのです。幕府の制度下では身分の低い勝は終始面白くなく、艦長室に籠ったきり艦上には姿を現わしません。船酔いがひどいというふうにも伝えられますが、時には航海の途中なのに「ボートを下ろせ、日本に帰る」と、拗ねていたと言われています。

 小栗忠順はフランス軍の力を借りて、幕府軍をフランス式軍隊に強化し、官軍に対して徹底抗戦を図ろうと提言します。それに対して将軍である徳川慶喜は、勝海舟の主張を入れて主戦論をとらず、世に言う「無血の江戸城明け渡し」という官軍に対する恭順の姿勢をとり、自らは水戸へ引っ込んでしまいました。小栗忠順は惨殺されますが、維新後も勝は新明治政府に何かと力を貸していくことになります。一方、木村喜毅は咸臨丸に軍艦奉行として乗船するとき、私財を投じて軍艦奉行の大役を果たすほどの人です。幕府崩壊と共に身を退いて表に出ることはありませんでした。軍艦奉行に仕えた福沢諭吉は、創設していた学塾を興し、木村喜毅のこの辺りの事情を一切承知しておりますので、経済的な援助もしていたと言われます。勝海舟は明治の貢献者としてその後も名声を博し、一方の木村喜毅は一市民として浪々の道を歩むということになります。

 これも余談になりますが、ずっと後になって福沢諭吉は、著作「痩せ我慢の説」を書いて、勝海舟に武士の存分を世に問うたことがあります。文筆家の福澤諭吉としては「この文章を公にしてよいか」と、海舟に対して問うてもいたでしょう。勝は「天下のために自分の執った行動に対する責任は、偏に自分にある。それを批判するのは他人である。どうぞ世の人々に問うて下さって結構です」という返信を出しています。武士としての進退の困難さを思うとき、木村喜毅の切れの良さを理解する福沢諭吉の言い分にも、首肯したいものがありますが、勝海舟もまた自理に基づいての行動であったのでしょう。

   かくして司馬さんの書かれた作品が醸し出す魔術に読者は酔いしれ、人それぞれの運命を思うとき、登場した小栗忠順、勝海舟、木村喜毅、福沢諭吉という歴史に名を残す錚々たる人たちの、同じ万延3年に渡米した身でありながら、その後に生起した世の激動に対して、互いに因縁を持ちつつそれぞれの人生を過ごして、生涯を終えていったことを考え、暫し黙想の後、応援団子は大きなため息が出てしまったことを告白しなければなりません。今月は少し話が堅苦しくなりましたが、お許し下さい。
                               (応援団子A


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