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        二宮尊徳の言葉(3)      (平成28年1月)

 新年おめでとうございます。本年も「ハートウェア応援団」に倍旧のご厚誼ご支援を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。年明け早々の日本は、エルニーニョ現象による異常気象に見舞われているようです。こういう時期には、二宮尊徳翁ではありませんが、自然の道理を正しく受け止め、これに如何に対応していくかが求められているのでしょう。

 それでは尊徳翁の話を続けさせていただきます。小田原藩藩主の大久保忠真から荒廃した下野の三村復興を依頼された尊徳翁は、「一農民の自分には身に余る難問題」であるとして辞退し続けましたが、藩主はその後も三年もの長い間、「この難問題は二宮尊徳以外に解決できる者はいない」と譲りませんでした。流石に尊徳翁もこれ以上、藩主の願いを断ることは出来ないと、三村の調査を申し入れ、自ら赴いて数か月の間、村民と生活を共にしながら実態を検分しました。その検分方法は、村民を一軒一軒たずねて、生活ぶりを注意深く観察し、田畑の土質、荒れ具合、排水、灌漑の設備などなど、つぶさに調べました。しかし、藩主に提言した復興のための要点は、「仁術さえ施せば、この貧しい人々に平和と豊かな暮らしを取り戻すことが出来る」という意外なものでした。尊徳翁が三村復興を「仁術」に求めたのは、一体、どういうことなのでしょうか。少し長くなりますが、尊徳翁が藩主に告げた報告の内容を下述します。

 「三村復興のため、村民に金銭を下付したり、税を免除したりする方法では、この
困窮は救えません。彼らに与える金銭的援助をことごとく断ち切ることです。この
ような援助は、貪欲と怠け癖を増長するだけで、しばしば農民の間に争いを起こす
もとになります。荒地は荒地自身のもつ資力によって開発されなければなりません。
貧困は自力で立ち直らせなくてはなりません。
殿にはこの痩せた地域からは相応の収穫があれば良いと考えて下さい。もし一反の
田から二俵の米が収穫できるとしたら、一俵は人々の生活を支えるために用い、残
るもう一俵は、あとの耕地を開墾する資金として使わなくてはなりません。世の町
村は、村民自身の努力によって、土地そのもののもつ資源を利用して、今日の田畑、
庭園、道路などは構築されて来ました。仁愛、勤勉、自助、これらの徳を徹底し励
行してこそ、村に希望が見られるのです。もしも誠心誠意、忍耐強く仕事に励むな
らば、この日から十年後には、昔の繁栄が回復できるのではと考えます」

 仁術とは、「人は金銭で動かすのではなく、村民の努力を促すに足る誠心誠意、村民と共に苦労する覚悟のあることを徹底して励行することだ」と藩主に訴えたのです。藩主はこの尊徳翁案を採用する度量を持っている賢明な藩主でした。尊徳翁にこの難業を依頼し、尊徳翁も引き受けました。ただ、そのことは尊徳翁がこれまで努力をして、立て直しを図って来た二宮家と自らの生活を放棄しなければならないという苦悩でもありました。引き受けるからには家人には、新任地に赴くことを伝えて理解を得、先祖の墓前には、その決心を報告して新たな任地へ向かいました。

 この後の尊徳翁の三村復興の努力は並大抵のものではありませんでしたが、忍耐強く、しかも果敢に行動し、周囲の人も尊徳翁の実行力についていきました。その一つひとつをここに書くことは省略いたしますが、如何なる場合も自らの経験から体得した知識と智慧と用意周到の準備によって、降りかかってくる難問題を克服していきました。現場志向で実学を尊重する尊徳翁は、机上の空論に惑うことはありませんでした。常に実現の可能性を実態調査と経験の中から割り出して行動に移していきました。不平不満を持っている村民には、誠心誠意で応えていきました。

 あるとき、村民の不満がひろがり、如何なる「仁術」をもってしても収拾できない事態が起こりました。尊徳翁は「この責任は吾にあり、天はこのような手段で、吾が誠意不足を罰する」と自戒し、その後、突然、人々の前から姿を消してしまいました。その行方を案じる人々に、尊徳翁が遠くの寺で二十一日間の断食修行に没頭していることが判明しました。この尊徳翁不在を経験し、村民は尊徳翁なしに、今や村民生活が成り立っていかないことを確信したのです。尊徳翁に一日も早く帰ってきて欲しいと懇願しました。断食期間が終わると徐々に体力を回復し、村民の待つ村に、勇躍して帰っていきました。

 数年にわたる不断の努力と倹約の期間を経て、「仁術」の特効により荒廃地は解消されましたし、生産能力も上昇、回復に向かいました。尊徳翁は他国から入植者を迎えることにしましたが、「他国者には我が子にまさる親切が必要である」と、もとからいる村民にもまして気を配りました。尊徳翁の完全なる復興の施策には、土地の肥沃の回復だけではなく、十年分の備蓄がなければならないという考えがありました。「九年分の備蓄では危ういし、三年分の備蓄しかない国は、もはや国とは言えない」というものでした。事実、三村がまだ備蓄が整っていない時期に、尊徳翁は飢饉に襲われました。その年の夏、茄子を口にした尊徳翁は「これはまるで秋茄子のおいしさを持っている」と思いました。「今年は夏の間にすでに秋の日照時間を使い尽くしている。秋の天候は良くない」と。

 そこで、尊徳翁はその年の米の生産高が落ちると予測し、農家一軒に一反の割合で稗を蒔くように村民に命じました。そして村民も指示通りこれを実行し、事実、遭遇したこの飢饉に対して、三村の中では、食糧不足に苦しんだ農家は一軒もありませんでした。十年の年月を経て、この三村は嘗て繁栄した時期と同じように、米の収穫を四千俵あげられる能力を持つようになっていたのです。尊徳翁自身も多くの収入を獲得できるところとなり、余禄を困窮者支援に自由に使うことが出来るようになりました。尊徳翁の名声は、ますます遠くまで広まりました。

 上述しましたように、常に自身を現場に置き、実学を重んじる尊徳翁の行動は、伝記や資料の形で世に残りました。おそらく後に続いた明治維新に貢献した改革者の「働くことの基本的な姿勢を保持すること」に、役立つ資料としての役割を十分に果たしたのではないかと、応援団子は思っています。福沢諭吉、渋沢栄一はじめ、近代の教育界、実業界で名を成す偉人は、必ずと言ってよいほど、二宮尊徳翁の姿を学んだのではないでしょうか。二宮尊徳翁の項は、これで終わりにします。何度も口にして恐縮千万ですが、二宮尊徳翁の偉業は、現在日本の子供たちに伝えていかねばなりません。皆さまには、三か月にわたりお付き合いをいただき有難うございました。
                              (応援団子A)

 参考文献 黒岩一郎著 新講「二宮尊徳夜話」(明徳出版社)
      内村鑑三著 「代表的日本人」(岩波文庫)

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