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        芭蕉晩年の思い(補足)   (平成27年 7月)

 冒頭、本題から逸れることをお許し下さい。実は、谷川社長にお誘いいただいて、6月中旬に北陸新幹線の初乗車を体感し、久しぶりの富山訪問を果たすことができました。JR富山駅に到着して先ず感じましたのは、駅前周辺の改装工事が終了していないことでした。富山の皆さんも、さぞかしご心配だろうなと思いました。出来るだけ早い機会に工事が完了することを祈念しています。

 谷川社長には、駅前でお会いし、それから後の時間は、ただただ谷川社長のご配慮に預かり、懐かしい方々にもお会いできて、久し振りに瑞龍寺、万葉歴史館に案内していただきました。そして国泰寺は初めての訪問でした。瑞龍寺の偉容さは厳として変わらず、歴代前田家殿様のお国安泰の治めかたを思うことでした。国泰寺では本堂に掲げられた山岡鉄太郎(鉄舟)の額が印象に残りました。万葉歴史館では、展示されている万葉歌に歌われた四季の花々や木枝、木の実、布などなど、その色合いまで実感することができ、往時を思うことでした。それにしても大友家持はじめ当時の人々の歌に残した富山の素晴らしさですね。

 また、翌朝は(株)ハートウェアのオフイスに伺い、社員の皆様とも久し振りに懇談も出来たし、午後は運河(富岩水上ライン)クルーズもさせていただきました。運河がパナマ運河と同じように中島閘門の水位の差を解消する方式を採用していることや運河作成の発端が、神通川の治水を考慮し、流れを直線にする工事のあったことも伺いました。しかし、北前船の岩瀬停泊が、富山全体に与えた影響を拝聴するにつけ、富山が有している歴史の重みについて、再考する必要があると思いました。谷川社長、二日間有難うございました。

 本題に戻ります。応援団子が俳句を学び始めて5年、先月の「気ままにご挨拶」でも芭蕉のことを書かせていただきましたが、芭蕉は「おくのほそ道」の旅の途中で、越後、越中、越前と足を運んでいるのに、同行した曽良の旅日記によりますと、元禄2年7月14日の項に「富山にかからず」と書き、滑川から西下する道程は、出てくる川々を渡し船で渡る海沿いのコースを進んだようです。そして新湊から高岡に入ったことが記されています。旅の終盤に近いこの時期、芭蕉の体調が優れなかったようで、氷見に行きたいと思ったけど行かず、万葉の歌枕になった那古、二上山と石瀬野だけは見たと記されています。旅の目的が、歌枕探訪の旅であったことを思うとき、体調を壊していたとはいえ富山ファンであり、芭蕉贔屓の応援団子には、何か記録を残してくれていればと。「おくのほそ道」の本文には、黒部と那古のことは記されていますが、「この地の人は宿を貸さずと言ったので、加賀の国に入った」とあります。ちょっと残念ですね。

 それはさておき、話を先月の「芭蕉晩年の思い」の補足です。元禄二年の暮に、北村季吟が幕府に登用されたことで、芭蕉の受けたのではないかと思われる衝撃のことを書きましたが、少し説明不足ではなかったと思いました。記述しましたように、仕えていた主人の新七郎のお供とはいえ、俳諧を季吟から学び始めたことは確かです。季吟の俳諧は、松永貞徳が師匠筋に当り、形と技巧を重視する俳諧宗派です。芭蕉はこうした幾つかの師匠筋を観察していくうちに、俳諧の純粋性と言うか、文学性に不満を覚えるようになって、新たに蕉門を興すことを決意した訳です。その矢先に幕府が季吟を将軍の教授方に登用したということになります。芭蕉は己が蕉門俳諧を一刻でも早く、世間様に知らしめたかったのでしょう。

 武家の栄達も、僧侶の道も閉じて、俳諧という風雅の道一筋を全うしようとした、芭蕉の活動を追いかけている応援団子です。撰集「猿蓑」六巻の編纂を終え、京の井筒屋で発刊がなった芭蕉が、次に纏めなければならないのは「おくのほそ道」の旅です。芭蕉はこの紀行文を、これまでにない新たな創作文にしようと企図したのではないでしょうか。旅の道程通りに紀行文を記述していくのではなく、あたかも小説を書くように、日時、行程、出来事を変えたり、創作したりしたことが判ります。ただこの作業は、元禄4年晩秋に江戸に帰ってからの仕事になります。ここでお詫びしておかねばならないことがあります。応援団子は先月の「気ままにご挨拶」の文中で、元禄二年から足掛け4年に及んで、上方に居続けたと書きましたが、足掛け3年の誤りでした。謹んでお詫び申し上げます。

 元禄4年の晩秋に江戸に帰って、芭蕉の俳諧への「新しみ」追求の思いは止むことはありませんでした。江戸の遊戯的な俳諧には見向きもせず、文芸としての俳諧を追求し、発句趣向が「軽み」へ「軽み」へと向かっていきます。また門人の来訪は増える一方であり、元禄5年には門人の好意で、第三次の芭蕉庵が新築されます。蕉門俳諧の繁栄は、芭蕉も望むところであったでしょうが、元禄6年には、私的な暮らしの中で変化が起ります。父親代わりになって江戸に連れて来ていた。姉の子の桃印が結核を患い亡くなります。この後、「閉関の説」を記し、外部との接触を遮断して芭蕉庵に一か月間ほど籠もってしまいます。「この時期に『おくのほそ道』の執筆が進んだのか」などと言うのは、後世の人の言です。

 芭蕉の晩年は、元禄6年で、実質もう2年を残すのみです。元禄7年10月に芭蕉は病没します。そこまでの芭蕉を追いかけますと、残された時間はあまりにも少な
かったし、九州、四国への旅など、続けたいことが残っていました。俳諧についても、「俳諧に到達、完成などはない」と門人たちにも言い聞かせていました。晩年の句として遺る元禄7年の句「秋深き隣は何をする人ぞ」や「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる」には、まだ生き続けたいと願う芭蕉の気持ちが溢れていることを申し上げて、今回は擱筆とします。(応援団子A)


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