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第7回

◎ 宮地佐一郎編「龍馬の手紙」(講談社学術文庫2003年12月発刊)から抜粋
    書簡82 慶應三年六月二十四日 乙女(姉様)、おやべ(姪)宛て

     『今日もいそがしき故、薩州やしきへ参りかけ、朝六ツ時頃より此ふみした
     ゝめました。当時私ハ京都三条通河原町一丁下ル車道酢屋に宿申候。・・
     ・(中略)・・・此頃私しも京へ出候て、日々国家天下のため議論致しま
     じハり致候。御国の人ハ後藤象二郎、福岡藤次郎、佐々木三四郎、毛利荒
     次郎、石川清之助(此人は私同ようの人)。又望月清平(これハずいぶん
     よき人なり)。中にも後藤ハ実ニ同士ニて人のたましいも志も、土佐国中
     で外ニハあるまいと存候。・・・(中略)・・・かれこれの所御かんがへ
     被成、姦物役人にだまされ候事と御笑被下まじく候。私一人ニて五百人や
     七百人の人お引て、天下の御為するより廿四万石を引て、天下国家の御為
     致すが甚よろしく、おそれながらこれらの所ニハ、乙様の御心ニハ少し心
     がおよぶまいかと存候。・・・(後略)』

  坂本龍馬にとって慶應三年六月二十四日は、上述の手紙の書き出しを見ても、多忙ながらも充実した一日を迎えていたことが察せられる。鞆の浦沖で和歌山藩船明光丸との衝突で沈没した海援隊いろは丸の賠償問題を前月末に解決させ、前々日(二十二日)には「薩土盟約」も樹立させた。「薩土盟約」は、薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通等と、土佐藩の後藤象二郎、福岡藤次郎(上述の手紙では福岡孝弟)等で決め、龍馬は同志中岡慎太郎(上述の手紙では石川清之助)と現場に立ち会い得心した。また翌日(二十五日)には「薩土芸藩約定書」締結を控え、今日も薩摩屋敷に談合のために出かけるのだが、その前に一筆ということで、早朝六時から、海援隊の事務所となっていた河原町の酢屋で乙女姉と姪の春猪(おやべは別称)宛てにこの手紙を書いたのである。この手紙は乙女宛ての手紙の中では最も長文で、実物を写真掲載した上述の文庫本では、頁数にして二十頁を数える。

  上述の手紙を読み進める前に、先ずはここまでの坂本龍馬の行状の主なものについて触れておきたい。慶應二年一月に龍馬と慎太郎などが支援して、薩摩西郷、長州桂小五郎を主軸にした倒幕の背骨ともなるべき「薩長連合」交渉を成立させているが、龍馬はその前年に、海軍奉行勝海舟の解任によって、事実上神戸の海軍操練所が解体してしまい、行き場のない訓練生を集めて長崎で「亀山社中」を発足させていた。この間、薩摩藩や長州藩の支援を受けながら、船の買い付け、武器の売買などをしているうちに、龍馬は「今や薩摩と長州が連合することが新国家建設には必要である」との確信から、これを両藩に持ちかけ、決め手として薩摩藩の名目で購入した武器を必要とする長州藩に、薩摩の必要とする米を長州藩から回すという実利の共有を亀山社中が橋渡しをした。まさに現代の商社機能を果たしている。脱藩自由人、プラグマティスト龍馬の面目躍如といえよう。

  それにつけても土佐藩の実情はややこしい。この時期まででも山内容堂という殿様代行の行動や思考で周囲は右往左往したと言えるのだろう。土佐藩の中に芽生えた土佐勤王党は、武市半平太(瑞山)が指導者として土佐藩内の守旧派家老吉田東洋を暗殺し、世に尊皇派として活躍を始めるも、後に守旧派の復讐というのか、容堂の変節というのか、勤王党の間崎滄浪、平井収二郎らは捕らえられ、武市瑞山も土佐に帰国して入牢、慶応一年閏五月には処刑あるいは切腹の悲運に見舞われた。容堂の命令でこれらを指揮していたのが後藤象二郎である。武市とは一線を画していたとは言え龍馬の切歯扼腕が見て取れる。その後藤象二郎もまた慶應三年には幕府では諸外国に対応出来ないことを覚り、他藩に遅れを取るまいとの念から長崎に自ら赴き「土佐商会」を設立して対応を考えていた。長崎で状況を探るうち
 に、自藩を脱した龍馬の大活躍には目を見張ったことであろう。

  龍馬が江戸での剣術修業時、同様に修業生であった溝淵広之丞が長崎に来ていて、龍馬は慶應二年秋に再会したのだろう。一夜、酒を共にした後、龍馬が広之丞に宛てた手紙もこの文庫本に掲げられているが、酒の席での話の続きであろう「人間なら父母の国を誰が忘れるものか、忍んで国の人を無視してきたのは、大願を果たすためだった」と、龍馬の孤独さを思わず吐露した感慨深い手紙がある(実は、応援団子は初め、冒頭の手紙にこれを掲げようかとも考
 えた)。その広之丞の斡旋もあって慶應三年一月に後藤象二郎と龍馬の会合が持たれた。龍馬にとって後藤に対面するまでは穏やかな気持ちでいられるわけはなかったが、後藤は長崎で龍馬馴染みの清風亭に場所を拵え、過去の話に一切触れず、今後土佐藩は如何にあるべきかという未来のことだけを、龍馬に問い自らも語った。この後藤の態度にプラグマティスト龍馬は確執を氷解させ、海援隊を発足させるに至った。

  前置きが長くなった。この手紙には活躍する土佐藩の逸材として、後藤象二郎を始め福岡孝弟、佐々木高行、毛利恭助、望月清平を挙げ、中でも後藤はわが同志で志も魂も土佐一番であると明記している。これを読めば勤王党贔屓の乙女姉が、気分を悪くするのを龍馬は十分承知しており、事実、後藤と龍馬が同席したことは土佐藩中を駆け巡り、「龍馬許せぬ」と騒ぎ出す者も数多くいたらしい。乙女姉からは「何故、後藤象二郎など武市の敵と同志を組むのか」との非難の手紙を受け取っていたと思われる。ましてこの時期、兄の坂本権平家の養子に入った春猪の夫、清次郎が土佐を飛び出して龍馬の下に来ていた。乙女の心配が手に取るように判る龍馬は、このことも権平兄に傷がつかぬように後藤とも相談しており、後藤に「天下のために働くことであれば坂本家に傷はつくまい」と言わせており、安心したことをさらりと姉に伝えている。

  そして、「後藤象二郎に騙されているなどと笑わないで下さい。五百人や七百人で御国のために尽すよりは、土佐二十四万石の力を借りて天下国家のために尽力する方が良いでしょう。姉様にはそこまで考えが及ばないでしょう」と、冗談めかして大事業をなさんとする固い決心を示しているのである。反面、「土佐から出たい」と乙女姉が言い出していることに対して、「勤王や尊皇と騒ぎ、濡れ手で粟を掴むように天下国家の話を吹き込む輩もいるのだろうが、女が出奔するなど危険なことを考えるのはお止め」と説得し、春猪には亭主が脱藩しているのに「簪を送ってくれなどとは何事か」と諌め、はたまた兄の権平は酒が過ぎるとか、妻のお龍は天下国家のことなど壮言もせずに良く尽くし、縫いものなど女の務めを果たしており、時間があれば本を読むようにと言って聞かせていると、「姉様もそうすれば」と言わんばかりの長文で、龍馬の人間味あふれる優しさを顕している。

  昨年末に発刊されたこの文庫本「龍馬の手紙」は、世の坂本龍馬ファンには有難い一冊ではなかったかと思う。余談であるが、これまでの調査資料で世に残存する龍馬の手紙が百二十八通から八通増えて、百三十六通になったところまでは知っていた。しかし、今回の文庫本を見ると更に三通増え、百三十九通が掲載されており、それぞれの手紙に要を得た解説が施されているのは、永年に亘って龍馬の資料を求め、考察し続けた宮地編者の功績である。脱藩以後は土佐藩からも追われ、幕府からも命を狙われた坂本龍馬にしてみれば、「読んだらすぐ火中に」とか「人に見せるな」と、出した手紙の破棄を望み、おそらく膨大な手紙の中から残った百三十九通である。龍馬没後、土佐に来ていた妻のお龍が乙女姉さんとの折り合いが悪く、京への出立前に龍馬からの手紙を浦戸の浜で燃やしたのは有名な話だが、「その手紙が残っていたら」とは、歴史家の嘆くところである。

  かくして近代日本の構想デザイナーたる坂本龍馬は、「大政奉還」を後藤象二郎に上奏せしめ、徳川慶喜は将軍職を返上し、薩長藩の要人が参画して「新政府要綱」策定の準備までは役割を任じていた。残念ながら計画半ばにして、満32歳の誕生日の日に、同志中岡新太郎と共に暗殺の憂き目に遭ってしまった。「薩長連合」が成った直後には、寺田屋にて新撰組に襲われ、「海援隊発足」の直後には「いろは丸沈没」という和歌山藩との間でトラブルに巻き込まれ、「薩土盟約」の直後には、これは誤解であったのだが、英国の「イカルス号水夫殺害」が海援隊隊員の仕業であるとの嫌疑をかけられ、龍馬は東奔西走した。ひと仕事達成の後には必ず災難が待っていた。「大政奉還」までは何とかこれを解決してきたが、新政府樹立までは間に合わなかった。龍馬が望んだ「世界海援隊」発足の夢は、永久に叶えられることはなかった。思えば龍馬の一生は常にトラブルの中にあった。

  「大政奉還」の成立を見たあと、龍馬はひょっとしたら考えを変えたのかも知れない。「一戦止むなし」の姿勢を、新政府要綱の実現にのみ傾注し始めた。先ずは財政確立が急務であると、最適任者に越前藩由利公正を推薦し(事実、由利公正は維新後その任に着いた)、越前藩に出向いて本人にも口説いていた。そのとき由利が、龍馬は「不戦なり」を口にしていたと言う。ここまで共に推進してきた薩長の要人からは、「龍馬臆したか」と思われたかも知れない。
 また、龍馬の師匠たちは、ジョン万次郎の経験談を聞いて「富国強兵」を教えた河田小龍、幕府要人の勝海舟、大久保一翁、横井小楠、松平春獄である。海舟にして小楠にしても龍馬が随所で示すプラグマティズム精神を認めても、常に倒幕派にいるのだから、必ずしも快く思っていなかったのではないか。いずれにしても龍馬は両陣営から理解されにくい、一歩先の考えを突っ走っていたのだろう。

  龍馬の暗殺も明治維新の大転換で人が右往左往しているうちに、龍馬は次第に忘れられていった。日露戦争時に皇后の夢枕に立ったという噂で、「海軍の守り神」に祭り上げられるまで、龍馬の名前が出てくることはなかったのである(これとても海援隊生き残りの龍馬信奉者が仕込んだという噂がある)。龍馬が脱藩人生を選んだことで得た自由な発想が、これまでの大事業樹立に貢献してきたことは確かだが、結局、以後の体制が藩閥政治に流れて、純粋さを失っていくのを見ると、龍馬が或る手紙の中で「単身孤剣」と書いて消したことがあるが、その頃から既にかくなる流れを予知できるような、孤独感を味わっていたのかも知れない。人の一生とは、かくの如く儚いものである。たとえ儚いとは解っていても、龍馬のように仕事の種類も規模も世の関心度にも心をゆらせることなく、人は自らの夢に向かい仕事を続けることで光るのではないのだろうか。(応援団A)

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