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【 第二回 】 織田作之助著 「夫婦善哉」(2)

 昭和15年1月、27歳の織田作之助は前年結婚した妻の一枝と一緒に、姉夫婦の住む別府に一か月ほど滞在している。そこで姉夫婦を身近に観察してきたと思うのだが、一つ余談を挿ませていただきたい。既述した随筆「大阪発見」の冒頭は、あるお店の大将と御尞人さんの根っから仲の悪いことが書かれているが、これは姉夫婦がモデルになっているのではないかと言われる。惚れた腫れたと大騒ぎして一緒になった夫婦でも、またそうでもない夫婦でも、相性というものがあって、これまで育ってきた環境の違いから、暫く一緒に暮らしてみれば、双方ともに今までは見えなかった相手が見えてきて、相容れられない隙間の出来てくることを、織田作之助は姉夫婦からも観察していたのだろうか。

織田作之助が「夫婦善哉」で、このあと主人公の蝶子に与える試練も、多分に周囲から見聞きしたことが活かされているのだろうと思いつつ、エピローグまでを丹念に読み続けることにするが、先ずは蝶子の始めた関東煮屋のことである。 店の名前を 「蝶柳」と名付け、酒も出して結構繁盛していたのだが、柳吉はまたまた元気がなくなって来た。つまり飽きて来たのだ。今度は妹の結婚式に、声がかからなかったことが引き金になって、柳吉はまた店の金を持ち出して三日間も帰ってこなかった。このときも折檻して二度と浮気はしないと誓わせたが、何の薬にもならなかった。その内に、この店が柳吉の遊びに油を注ぐようなものだと、蝶子も後悔し始め自然と店は閉じてしまった。

蝶子が果物屋を始めたいと言ったとき、初めは乗り気にならなかった柳吉が、梅田の実家にまた金を無心に行ったが断られてしまい、自分から果物屋をやろうと言い出した。関東煮屋の諸道具も売り払い、仕入れの金は衣裳や飾り物を質屋に持ち込んでやりくりし、おきんさんからも百円借りて果物屋を始めた。西瓜などが廓でも売れてお客も付いた。そんなときに柳吉の病と母お辰の病が同時に襲ってきた。柳吉は腎臓結核で手術が必要であると言われ、お辰は子宮がんであると。お辰は入院も手術もいやだと治療を拒否した。蝶子は始めた果物屋も閉じて、柳吉の治療に専念した。かさむ治療費でお金がなくなり、今度は蝶子が梅田にお金を無心に行ったが、養子から冷たく断られる。

その翌日、さすがに柳吉の妹が見舞いに来てくれ、初対面であった蝶子の手に百円を握らせてくれた。蝶子にとって、百円のお金も嬉しかったが、妹が柳吉の娘を連れてきてくれたことと、妹が「姉はんの苦労はお父さんもこの頃よう知ったはりまっせ」と、かけてくれた言葉がもっと嬉しかった。十年はかかったが、柳吉の父親にこれまでの苦労をやっと分って貰えたと思ったのだ。病院に家から電話があって、母親の危篤を知らせてきた。病室に帰った蝶子に「水をくれ」と柳吉は喚き「親が大事か、わいが大事か。自分もいつ死ぬかわからへんぞ」と大げさに唸って見せた。蝶子は涙をこらえて椅子に腰を掛けていた。夜になってまた電話があり、「息を引きとらはりました」と母親の死を告げられた。

「蝶子はん、あんたのことを心配して、蝶子は可哀そうなやっちゃ言うて息を引きとらはったんでっせ」というお通夜の席の近所の人の白い目に、「わての亭主も病気や」ということを自分への言い訳にして、早々にお通夜を抜け出し病院に帰った。恐い目で「どこィ行って来たんや」との柳吉の問いに「死んだ」とだけ答えた。その蝶子に冷ややかな目を向ける柳吉がいた。お辰の葬式は、お辰が生前に準備していた簡易養老保険から五百円が出て、香奠返しの義理もきちんと済ませて種吉は、蝶子に「柳吉への見舞いや」と百円もくれた。蝶子には有難かった。蝶子は種吉にも、柳吉の父親が自分を褒めてくれていることを告げた。種吉は「そらええ按配や」とお辰の死後には初めての笑顔を見せた。

柳吉はやがて退院して、温泉場に養生に行かせることになり、蝶子はまたヤトナに出て温泉場への仕送りを欠かさなかった。ある日、夢見が悪いとこを気にして蝶子は温泉場に出かけて行った。折しも柳吉は芸者をあげて散財していた。魚釣りでもして静養している筈の柳吉が毎晩のように芸者をあげ酒も飲んでいることも、梅田の妹に無心をして金を貰っていることを宿の女中から聞かされて、蝶子は逆上した。そこにあった盃をガラス障子に投げつけた。芸者たちはこそこそと逃げ帰ったが、すぐにその芸者たちを呼び戻し、今度は蝶子が酒を飲んで散財した。自分の惨めさをぶつけて温泉場の人気商売の芸者にケチをつけたくなかったし、自分には残酷めいてはいたが快感でもあった。

温泉場から大阪に帰って、二人は日本橋の御蔵公園裏に二階を借りた。相変わらず蝶子はヤトナに出て家計を支えた。ある日の夕方、以前に北の新地で同じ抱主の所で一つ釜の飯を食べていた金八という芸者に出会った。金八は蝶子の駆け落ち騒動の頃に、鉱山師の旦那が出来て落籍され妾となったが、本妻が死んで後釜に据えられ、今は鉱山の売り買いにも口を出すようになっている。金八に誘われるままに戎橋の丸万ですき焼きをご馳走になり、昔の苦労話とともに、金八は「蝶子はんにも出世して貰わんと困るんや。千円でも二千円でも無担保、無利子で貸すから、何ぞ商売をして欲しい」と言ってくれた。蝶子にとっては地獄に仏とはこのこと、感謝の気持ちで一杯になった。

二人で八卦見の所へ行き「水商売が良い」とのお告げを貰った。「あんたが水で、わてが山や。水と山とで、何ぞこんな都都逸ないやろか」と。これで蝶子の商売は決まった。名前は「サロン」をつけて「サロン蝶柳」にした。この商売も苦労はそれなりにあったが、良い女給さんにも来てもらって店にも新聞記者の客がついた。店では「マダム」、「マスター」とは言わせないで「おばちゃん」、「おっさん」と呼ばせた。そのうちに娘さんを引き取って一緒に暮らそうという話も蝶子は柳吉に持ちかけた。娘は「サロン蝶柳」にもセーラー服で、無愛想であったが現れるようになり、そんなときは蝶子も娘の機嫌をとった。中風の父親の容態が悪くなったときには、二人で駆けつけることにしていた。

親父の容態が悪くなり、柳吉が梅田に帰ってから四日ほどして、夕方になって電話の呼び出しがあり「話がついた。直ぐに来い」と声がかかるのかと思ったら、「ああお、お、おばはんか。親父は死んだぜ」と。「そんなら、私も直ぐそっちィ行きまっさ。紋付も二人分出来てまんねん」と、震えながらも言った蝶子に、「お前は来ん方がええ。来たら都合が悪い。よ、よ、養子が・・・」あとの言葉を蝶子は聞かなかった。中風の父親が生きている間に、二人の仲を認めてもらいたいと願っていたが、それも叶わなくなった。いざというときには葬儀には出るつもりで、二人の紋付の羽織を仕立てて準備はしていた。柳吉という男は最後まで煮え切らない男だった。蝶子は二階へあがってガスの線を捻る。

夜になって紋付を取に来た柳吉が、ガス臭いことに気づき、二階へ上って慌てて戸を開けたので、蝶子は何とか一命は取り留めた。「日陰者自殺を図る」というような同情的な書き方をした新聞記事が出た。柳吉は「葬儀があるから」とその場から逃げ出し、それきり「サロン蝶柳」には帰って来なかった。起きられるようになって蝶子は店に出ると、 客が慰めてくれて、 以前にもまして店は賑わった。出て行ったきり帰ってこない柳吉は大阪から身を隠していた。蝶子は毎朝金光教の道場へ柳吉が帰って来るようにとお参りに出かけた。二十日ばかり後に柳吉から父親の種吉のところに手紙が届いた。そこには蝶子と別れ、九州の土地で娘を引き取って自活するというような内容の手紙になっていた。

種吉は「こんな手紙を蝶子に見せたら、えらいことになる」と燃やしてしまった。それから十日も経つと、柳吉は「サロン蝶柳」に、ひょっこりともどって来た。「行方を晦ましたのは作戦や。蝶子と別れたと見せかけて、養子から金を取る肚やった」と。柳吉はどこまでも哀しい男である。そして蝶子を「何ぞ旨いもんを食いにいこか」と誘った。出かけたところが法善寺横丁の「めおとぜんざい」である。柳吉の「このぜんざいは何で二杯ずつ持ってくるのか知ってるか」と始まる講釈が、蝶子の考えとはまるで違うところは、読者も「さもありなん」と納得することになるだろう。この辺りは是非とも本文を読んで、確かめていただければと思う。

やがて浄瑠璃を習い始めた柳吉が、二つ井戸天牛書店の二階の広間で開かれた素義大会で、蝶子の三味線のもとで語り、二等賞を取って大座布団を景品で貰う。その座布団を蝶子が愛用するところで、小説「夫婦善哉」はエンディングを迎えることになるが、それにしても蝶子の柳吉を思う気持ちの強さに、読者は本を閉じるときに、思わず溜息が出るのではないか。苦難はすべて自分がヤトナに出て稼ぐことで解決した。ちょっと油断をすればどこかに飛んで行ってしまう男をしっかり掴んでいた。 亡く なった柳吉の親父にも「添い遂げてみせます」という強い気持ちを貫き通したし、柳吉の妹も蝶子の強さに敬服さえしたのではないか。それなのに、柳吉によって表現される男は弱い、弱すぎる。

小説「夫婦善哉」を読んでいて印象に残るのは、上述した法善寺横丁の「めおとぜんざい」のほかにも、肝心な場面では、幾つかのお店が出てくる。楽天地横の自由軒は、柳吉の浮気遊び後の蝶子との仲直りの場として使われる。自由軒の玉子入りのライスカレーは、今もミナミの名物店として健在であり、大阪ミナミに出られたときには、ここでライスカレーに舌鼓をうたれた方は多いと思う。このほかにも金八姐さんにすき焼きをご馳走になった戎橋の丸万や、戎橋といえば「おぐらや」の山椒昆布の話も出てきて、柳吉がこの昆布に負けない味を出すと、蝶子から貰った日に一円の小遣いにも手をつけず、鍋に向かっている様子には、今も健在である「おぐらや」の昆布の味加減まで想像する。

織田作之助は死の二か月ほど前から立て続けに、「二流文学論」や「可能性の文学」を書いた。自らを「風俗壊乱の文士」とか「放蕩無頼の風俗作家」と自嘲しながらも、これまでの日本文学に挑んだのである。周囲から聞こえてくる評判に対して開き直りとも思えるが、さらに作品を書き続けることで、織田文学の本質を追及するしか方法はない。だが織田作之助は急逝した。宇野浩二が「哀傷と孤独の文学――織田作之助の作品」(昭和22年5月)で「庶民に注ぐ切ない愛と、深い憂いがあり、真に孤独な魂が、この世にうらぶれた人たちに寄せる深い思いやりと、切ない涙と、共感がある」と評したが遅かった。織田作之助にはもっと長生きして貰って、作品を書き続けて欲しかった。

織田作之助は「夫婦善哉」の続編を準備していたようだ。平成の世になって原稿が出てきて「完本夫婦善哉」として発刊されているというが、応援団子は読んでいない。生誕百年の記念にあたる今年は、幾つかのイベントが準備され、NHKでは尾野真千子と森山未來の主演で夏にドラマを用意していると聞く。織田作之助ファンが集う全国区の「オダサク倶楽部」もある。興味のある方は、「オダサク倶楽部」 のホーム ページを訪ねれば、今なお織田作之助に魅力に惚れ込んでいる方々の多さに圧倒される。実は、今回の原稿を書き進めるに当たっても、SNSでご縁をいただいた「オダサク倶楽部」のIさんから、多くのヒントをいただいた。末尾になるが、厚く御礼を申し上げて擱筆としたい。
                            (応援団子A)

参考文献  昭和文学全集13 小学館発刊 (平成1年2月1日)
      新潮社文庫 「夫婦善哉他短編」(平成25年1月25五日)第48版




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