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【 第一回 】 「グレート・ギャッピー」

 第1回目に登場させる本として、スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳「グレート・ギャッピー」を選んだ。「選んだ」なんて言えば、少し偉そうなもの言いになる。書店で突然に出会ったと言う方が当たっている。応援団子は今までにスコット・フィッツジェラルドの本は読んだことがないし、村上春樹の著作も翻訳ものも読んだことがない。この「グレート・ギャッピー」は、たぶん新聞書評で見たのだと思うが、村上春樹がまだ若い頃に読み、60歳になったら翻訳に取り掛かる。それまでは大事に取っておこうとした仕事であるということは知っていた。書店の一角を占有し、平積みされている中から一冊を取り上げて見ると、背表紙に「新訳で甦る、哀しくも美しい、ひと夏の物語。村上春樹が人生で巡り合った最も大切な小説を、あなたに・・・構想20年、満を持しての訳業・・・」と書いてある。この魅惑的な呼びかけに乗って見ようではないかと考えた。まさしくミーハーそのものである。

 「哀しくも美しい、ひと夏の物語・・」というから、応援団子は先走りして「学生が夏休みに過ごした、どこか旅先での恋物語か」くらいに考えたが、この独断と偏見は見事に外れた。成熟した大人たちの気ままな恋のもつれ、純度の濃い恋の行く末のあやうさ、そこに男と女がいたから出来上がったのかと思われるゆきずりの恋など、生活の華々しさの中にも、中年を迎える男女の年齢ゆえに揺れ動く心の置き場所を考えさせられる本だった。主な登場人物は、アメリカ中西部の家柄も悪くない裕福なキャラウェイ家で、父から「世間の全ての人がお前のように恵まれた条件を与えられたわけではない」と教えられて育ったイエール大学卒のニック。同じイエール大学卒で、アメリカンフットボール選手として名を上げたトム・ブキャナンと妻のディージー。二人とも資産家の子息であり子女である。またディージーはニックの再従兄弟(またいとこ)という関係にある。そしてディージーの友人でゴルファーのジョーダン・ベイカーは、後にニックの恋人になる。それとトムの愛人である自動車修理工場主のウイルソンの妻マートル・ウイルソンと冴えない亭主ジョージ・ウイルソン。それに題名にある、まさしく主人公たるジェイ・ギャッピーである。

 物語の骨格は、アメリカ西部出身者と東部出身者のこれまでの育ち方から来る微妙な温度差を匂わせながら、上述したような30代後半の男女のあやうく脆い恋愛模様が繰り広げられる。一つは金に困らない人達の、つまりトム・ブキャナンとその妻ディージーの自分に都合の良い解釈で流れていく恋愛関係。もう一つはディージーの独身時代、裕福な家の娘と貧しい家に生まれた下士官の、軍人であったがゆえに成立していた恋愛、この下士官こそがギャッピーであり、戦争で一度は消滅したギャッピーとディージーの恋、再会を機会に五年という空白の時間を埋めようとした恋であったが、ギャッピー(どうして裕福になったかは別にして、今は裕福になっているギャッピー)の努力も虚しく結局は実らずに悲しい最期に向う恋。さらにもう一つ、副産物のようなニックとゴルファーであるジョーダンとの当初から醒めているような恋愛が描かれている。

 この三つの恋愛模様は、時間の経過とともに恋を媒体とした人と人の結びつきの身勝手さと不安定さを提示していく。つまり人の心はある刺激を受けて揺れ動き、そしてそれが思わぬ悲惨な結果に向かわせるのである。

 簡単に詰めて話せばこんな筋書きになる。ニックがイースト・エッグの自宅に再従兄弟のディージーを訪ねてジョーダンと知り合いになる。そのジョーダンがギャッピーの主催するパーティに出てニックと再会し、これを見ていたギャッピーがジョーダンにウエスト・エッグにあるニックの家で自分とディージーが会える機会を作るよう依頼する。ニックの家でギャッピーとディージーは五年ぶりの邂逅を果たす。読者は読むに従い判ってくることなのだが、ギャッピーはディージーがどのような生活を送っているかを知っていたのである。情事にはまり込んでいくトムに愛想を尽かし始めていたディージーが、ギャッピーの出現に再び愛が芽生えるのかと現実を忘れる。これに気づいた薄っぺらなトムがディージーを取り戻しにかかる。トムとギャッピーのディージーに対する愛の深さを競い合う言葉の応酬のうちに、ディージーは現実の心情を吐露する。ギャッピーはディージーの「あなたはあまりに多くを求めすぎる!」という言葉に衝撃を受ける。それでもなおギャッピーはトムからディージーを守ろうとするが、終章ではミステリー仕立てのような結末が待っている。(この結末は是非とも読まれることをお薦めしたい。)

 実は、この本は1924年、作者スコット・フィッツジェラルド28歳のときに刊行された。今から80年以上も前の作品である。村上春樹は30代の後半にこれを読み、上述のように60歳になったら翻訳しようとこれまで温めてきた。すぐ60歳を迎えるという昨年、着手したら途中で止まらなくなって完成してしまったと「あとがき」にある。そして、村上春樹がこの本を翻訳するに当たって、自分が小説家であることを可能な限り生かしたこと、80年も前の作品であるというより、現在に生きていなければならないというのが最優先事項であること、つまり「現代の物語」したいという強い願望を持っていたことを強調している。

  これも村上春樹の「あとがき」の中で教えられたことであるが、作者のスコット・フィッツジェラルドは私生活で妻のゼルダの奔放な生活に頭を悩ませた。この作品にもゼルダの影がつきまとっているようで、ディージー・ブキャナンにも、マートル・ウイルソンにも妻ゼルダの真実が少しは書き込まれているのではないか。いずれにしてもこの本を読んだ後、読者は、ギャッピーのディージーを思う純度の濃い真剣さと悲劇的な結末と、トムとディージーが自分達の都合のいい方向に流れていく身勝手さを、ニック・キャラウエイの目を通して認知し、表面は成り立っている豪華な生活も、その底辺に潜むあやうさや揺れ動く心にしがみつく人間の悲しさを唸りながら考えざるを得ないだろう。もう一つ加えるなら、読者が「今、何歳であるか」によって、この本に登場する人物の受け止め方が変わるような気がする。村上春樹ではないけれど、また違った年代になった時に読み返すのも面白いのではないか。 (応援団子A)

※「グレート・ギャッピー」
  スコット・フィッツジェラルド著 村上春樹訳
  中央公論新社刊行(820円+税)
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