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第21回

◎ 「狂気が繁殖する恐怖」

まんが「ドラえもん」のお腹の中から出てくる道具の話から始める。のび太君がドラえもんの忠告をロクに聞かずに、調子に乗ってこれを濫用、ドタバタ騒動になるのがこの漫画の笑わせどころである。頭につけて飛ぶ「タケコプター」や、戸を開ければ時空を越えて好きな場所に行ける「ドコデモドア」など、お馴染みの道具と違ってタマにしか使われない、ちょっと幻惑的な「流行性ねこしゃくしビールス」の話をしたい。瓶の中に入ったこのビールスに願い事をしてふり撒くと、風に乗ってビールスは周りに飛び散って、このビールスが付着した人間は、一日だけではあるが、ふり撒いた人間の念じた願いの通りに動くようになる。例えばこんな話がある。瓶のフタ、つまり王冠に「これは宝物だ」と念じてふり撒けば、今日販売された三河屋の三本のジュースの瓶の王冠が、貴重であると数百万円の値をつけるというのがあり、通りかかったお金持ちがこれを買おうとしたところで、丁度一日が経って効力が消え、「あれっ」と、正気に戻って買わずに行ってしまうのである。

ドラえもんは漫画だから笑えるし、何かの拍子にやってしまう奇抜な行動が、笑い話で済んでいるうちは構うことはないが、懼れているのは「日本がまた、やってしまうのではないか」という、問題の本質をはずしてしまう失敗についてである。最近、世情は何やらきな臭い。不穏な空気が漂い始めているように思う。いつの世も心配の種は尽きないのだろうが、惰性に任せて流されるか、「これしかない」と力みかえるか、極端から極端に考えの変わる日本の弱点が気になる。それにしても、再びあの暗黒の60年前に戻る訳には行かぬ。それだけは「二度と御免」である。今回はそんなことが言いたくてPCに向かっている。先ずは昭和15年に米内光政海軍大将の書いた手紙から話を始める。

『魔性の歴史というものは人々の脳裡に幾千となく蜃気楼を現し、またその部分々々を切離して、種々様々にこれを配列し、また自らは姿を晦ましておいて、所謂時代政治屋を操り、一寸思案してはこの人形政治家に狂態の踊りをおどらせる。踊らされる者は、こんな踊りこそ自分等の目的を達することの出来る見事にして且つ荘重なものであると思い込んでしまう。かくして魔性の歴史というものは人々を歩一歩と思いもよらぬ険崖に追詰めるのであるが、然し荒れ狂う海が平穏におさまるときのように、狂踊の場面から静かに醒めて来ると、どんな者どもでも、彼等の狂踊の場面で幻想したことと、現実の場面で展開されたこととは、まるっきり似もしない別物であることに気がつき、ハテ、コンナ積りではなかったと驚異の目を見張るようになって来るのだろうと思う。―――少し書き過ぎの嫌いはあるが、まあ、言うてみればこんなものかな。呵々』

この手紙は、名著「ビルマの竪琴」を書いた竹山道雄の「昭和精神史」(講談社学術文庫)の中から孫引きをした。竹山は「昭和精神史」に、戦後10年を経た敗れた日本のことを書いた。未読者には名著一読をお勧めするが、魔性の歴史に支配された為政者たちは冷静な情勢判断が出来ず、日本人を総動員して戦争に参加するように導いた。軍人を含む為政者たちの頭脳は、世界に通用しない奇妙な誇りと空虚な妄想にとり憑かれ、日本国と日本人を「窮鼠、猫を噛む」状態に追い込み、やがて真珠湾に突進した。日露戦争に勝って舞い上がった日本人の錯覚と傲慢さの成れの果て、究極的に掴んだのがこの敗戦であった。米内大将のこの手紙は、後に「大戦の敗因」と言われる悪名高き、日、独、伊による「三国同盟」締結の頃、英、米との訣別が決定的になる前後に書かれた手紙だと思うが、結果として「呵々」などと笑ってはおれなかったのである。米内大将が「魔性の歴史」と表現した日本人の頭脳を犯すビールスに、再び生命を与えてはならない。

もう十年以上前のこと、文芸春秋の巻頭の随筆欄に連載されていた司馬遼太郎の「この国のかたち」は、文庫本(第一巻〜第六巻)になって今も販売中である。この中で司馬は、「統帥権」の独り歩きを許したことが日本を駄目にしたと書く。そして、それを日露戦争どころか江戸時代にまで遡って、その頃から日本人が「統帥権」に対して、あやふやな態度であったことを指摘している。また別に「雑貨屋の帝国主義」という稿があって、そこに日露戦争に勝った後、日比谷公園に三万人が集結して全国大会を開いたが、集まったその大群衆が暴徒化して、警察署2、交番所219、教会13、民家53を焼いてしまった状況を次のように書いている。

『私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年間の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に――たとえば参謀本部に――蓄積されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。むろん、戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。また煽るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい。』

(余談ながら、この稿の別段に司馬は「要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。」と書いている。)

司馬は上述の「四十年間」を、この稿の冒頭に、巨大な青みどろの不定形なモノとして登場させた。勿論、日露戦争の勝利(1905年)から、太平洋戦争の敗戦(1945年)までの四十年のことであり、これを擬人化させて、「君は何かね」の質問に「日本の近代」だと答えさせている。この稿は主として擬人化された、この「日本の近代」との対話形式で進行していくのであるが、戦争に突入していく日本人の狂騒の裏面下で、国家として当たり前に機能していなければならない経済的な損得勘定について、司馬はそれが全くなされていないことを次のように書いている。

『朝鮮を侵略するについても、そのことがソロバン勘定としてペイすることなのか、ということをだれも考えなかった。その後の"満州国"(昭和7年、1932年)をつくったときにも、ペイの計算はなく、また結果としてペイしたわけではなかった。(中略)"満州"が儲かるようになったというのは、密輸の合法化ともいうべき右のようなからくりのことをモノはいうのである。(モノとは上述の擬人化された「日本の近代」のこと)その商品たるや――昭和10年の段階で――なお人絹と砂糖と雑貨がおもだった。このちゃちな"帝国主義"のために国家そのものがほろぶことになる。一人のヒトラーも出ずに、大勢でこんなばかな四十年を持った国があるだろうか。』(文中、密輸の合法化というべきからくりというのは、日本から満州に商品が入る場合、無関税にしたことをいう)

損得勘定が人間行動の最優先課題かどうかはここでは追求しないにしても、ものごとを考慮する上で、損得勘定を議論の俎上にあげることは、人間が冷静さを取り戻すのには役に立つ。当時の日本の狂気は、米内大将の言うように「その部分々々を切り離し、種々様々に配列して」、多方面に残骸を撒き散らしている。現在、日本に生きる我らは、面倒でもその一つひとつを分析し、何が間違いだったのか、戦時下では止むを得なかったのか、他に選択肢があったのかと
いう分析を今後も丁寧に続け、来るべき事態に役立さなければならないと思う。その場その場の都合で「ああでもない、こうでもない」と、論議の焦点をぼやかして問題を先送りしてはならない。自己を正当化しようとする理屈にたて籠もっていてもいけない。こんなことをしていると、そのうち思いの激しい奴が現われて「魔性の歴史」の虜となり、それこそ「流行性ねこしゃくしビールス」をつくって、人を間違った方向に導いていくのである。

くどくなるがもう一つ、丸山真男全集の「超国家主義の論理と心理」から採る。この論文は、昭和21年5月に雑誌「世界」に掲載されたもので、当時、連合軍が漠然と言っていた「日本国民を永く隷属的境涯に押し込め、世界を今次の戦争に駆り立てた超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)あるいは極端国家主義(エクストリーム・ナショナリズム)」を、本来、日本人の美徳であった筈の「滅私奉公」が、国家と組んで「国家のためなら何をしても許される」と、
無限大に拡大されていくところに超国家主義が生まれるという丸山流に分析した論文である(応援団子はそう理解した)。
そこで丸山博士が「十重二十重の見えざる網を打ちかけ、現在なおその呪縛から完全に解き放たれず、国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むところ心理的な強制力」と表現しているものも、竹山が考え米内海軍大将の言葉に置き換えた「魔性の歴史」や、司馬が考えていた「四十年」と言い「日本の近代」と言ったものは、みんなどこかで繋がっているように思うのである。くどいようだがこれを呼び起こしたり、目覚めさせたりしてはならない。

前述したように、今、日本を取り巻いている環境は、どうもきな臭く、不穏な空気が漂い始めている。凶悪な犯罪の多発、続く天災地変、解決しない特殊法人の放漫経営や制度の腐敗、国境に関連する近隣諸国との政治的な摩擦、ここから生じた問題を記者から問われて答える指導者の概論的で評論家的なコメント、マスコミの報道スタイル、どれをとっても「本当に大丈夫か」との不安は隠せない。問題に対するコメントが長くなると、放送時間を気にして「話を難しくしないで」と、切りにかかるテレビ報道番組の司会者。で、何だか結論のない話で終わってしまう番組。出演している政治家たちも、聞いていると「専門的な細部の話をして、問題の本質に触れることを避ける」場合も見受けられる。
何か全員が「これでよいのだろうか」と思いながら、「まあまあ」と流れていく日常が恐ろしい。テレビでは問題の本質を示すのが難しいというのなら新聞に書けないか。その新聞もいたずらに対決だけを煽る記事だけではなく、もっと読者を考えさせる方向に記事を書けないか。

我らもこうした問題に対して、分ったような屁理屈を並べ、他人事のようにヘラヘラと笑って誤魔化していてはいけない。我ら一人ひとりが、国の自由と平和と安定を獲得するために骨惜しみをせず、わからぬ問題は理解するまで勉強しなければならない。「日本は特別である」というのは言うのも思うのも禁じ手である。世界に通用するルールの下に、懸命に努めねばならない。「なすべきことをなす」努力を怠っていれば、油断をしてスキが出来れば、いつでも、どんなところにでも、亡国の「流行性ねこしゃくしビールス」はふり撒かれるのである。こんな恐ろしいことはない。
                                            (応援団子A)

◎ おわりに、丸山博士が上述の「超国家主義の論理と心理」に、引用したラッサールの次の言葉が、今後の問題掌握と解決方法を見つけていくのに大切な姿勢ではないかと、印象に残ったので記しておく。

『新しき時代の開幕はつねに既存の現実自体が如何なるものであったかについての意識を闘い取ることの裡に存する。』(ラッサール)

参考文献
竹山道雄著「昭和精神史」(講談社学術文庫)
司馬遼太郎著「この国のかたち」(一)、(四)(文春文庫)
丸山真男全集(三)(岩波書店)


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