""
株式会社ハートウェア SI Visionの株式会社ハートウェア:「語りかけ、歩み寄る」タフに地道にハートワーク、フットワーク
""
株式会社ハートウェア:ホームへ
""
株式会社ハートウェア:会社情報
""
株式会社ハートウェア:サービス
""
株式会社ハートウェア:採用情報
""
株式会社ハートウェア:ハートウェア応援団
""
今月のハートウェア応援団
バックナンバー・気ままにご挨拶
バックナンバー・読書に乾杯! 
バックナンバー・恥かき読書
バックナンバー・エッセイ
""
株式会社ハートウェア:リンク集
""
株式会社ハートウェア:社長の一言バックナンバー
SI Visionの株式会社ハートウェア
 
""
株式会社ハートウェア:ハートウェア応援団
""

第20回

◎ 「世阿弥の訓え」をヒントに

前回、世阿弥著「花鏡」の「習道を知ること」から、「達人になるための三つの条件」を取り出して所見を述べたものの、拡大解釈の度が過ぎてはいないかとちょっと気になっている。応援団子は能楽の事には見識がなく、平素から世阿弥の著作を人生の指導書として読んでいるので、世阿弥渾身の真髄を軽々しく扱う気持ちなど毛頭ないが、読んでいるうちにいつの間にか考えが広がり膨らんで、本論から離れてしまうことが多い。先ずは世阿弥の書いた三つの条件をそのままに写しておく。

『(前略)・・・。そもそも、その者になること、三つ揃はねば叶はず。下地の叶ふべき器量、一。心に好きありて、この道に一行三昧になるべき心、一。また、この道を教ふべき師、一。』この三つ揃はねば、その者にはなるまじきなり。その者と云つぱ、上手の位に至りて師と許さるる位なり。(後略)・・・』

世阿弥が、ここで言う達人になるための三つの条件のうち、「下地の叶うべき器量」を「好きなことを続けられる最低限の素地」と書き、世阿弥が「師」とだけしか言っていないのに、「一緒になって苦労をしてくれる周囲の支援者」とまで書いた。世阿弥は簡潔に「申楽の基礎を十分習得できる素質」と、「これを教える良き師」と言っているだけなのに、応援団子は、人生において事を為すには「最低限の素地がなければ好きなことも続けられないだろう」と枠を広げ、「好きだからこそ一心不乱に集中できる心」を持てるのは、教えるべき師もさることながら、教わる環境を作ってくれる周囲の良き理解者や支援者も師と一緒に入れてもよいと思ったのである。いずれにしても、世阿弥の基準とした「師が許す免許皆伝」という絶対的な条件までは考えなかった。

本章全体を通して世阿弥の言いたいところは、「師から教わる技術の基本を十分に習得してもいないのに(まだまだ技が自分のものになっていないのに)師を真似ても、ただ似ているというだけのことで何の面白みもない」ということであり、もう一つは「易経」にある「その人に非(あ)らずして、その書を伝えるは天の悪(にく)むところなり」という孔子の訓えを例に挙げて、「師と弟子の関係は、弟子は師から全てのことを習うのは当然であるが、師が弟子に皆伝を許すのは、弟子の基礎実力と打ち込む本心を見通してからでないと、許すわけにはいかぬ条件が多々あるのだ」と、伝道者が判断を誤って資格のない者に秘伝を伝授することは「道をはずす悪業である」という自戒を著すことであった。

もう一度、世阿弥という人の生涯をごく簡単に触れる。幼児の頃から父観阿弥の教えるとおりに舞い、謡っていたが、ある時それが将軍足利義満の目に止まり、少年ながら囲われ者のような立場で権力者の側で仕えた。その後も観世座の希望の星として観阿弥から学び精進したが、二十二歳にして父観阿弥が五十二歳で急逝する。観世座の座長に上がった世阿弥は、以後一座を背負い「風姿花伝」の第三編を著す三十七、八歳頃までは、ライバルのひしめく中で義満の庇護の下、申楽の中心的な存在として活躍したと思われる。その間義満が将軍職を義持に譲り、出家した義満が亡くなる。世阿弥は「風姿花伝」を完成させて、長子元雅や次子元信と申楽を演じながら、秘伝の著作活動を続けていた四十六、七歳の頃に、運命は下り坂を転がり始めていたと思われる。

義満が観阿弥、世阿弥の幽玄の申楽を第一としたのに対し、後継の義持は田楽の増阿弥を贔屓にした。世阿弥自身も増阿弥の演技を認めていたようだが、短期間で義教に将軍職を譲った義量はともかく、義教の時代になると世阿弥は着々とその後の著作をものにしていったが、元雅、元信ともども親子はお上から疎んぜられた。足利時代もこの時期に入ると、全国に強力な守護大名が現れ、不穏な空気が流れ始めた時期といってもよく、それだからこそ世阿弥の 言う寿福増長(じゅふくぞうちょう=命のやすらぎを増やす)、衆人愛敬(しゅにんあいぎょう=多くの人に喜ばれる)を目指した能楽が受け入れられた時代でもあったと思うのだが、世阿弥はすでに七十歳を過ぎ、長子元雅は義教の命で醍醐寺清龍宮の楽頭を罷免され、従兄弟の音阿弥に譲り旅先にて逝去、元信は出家し、世阿弥は自らの能楽を伝うべき嫡系の縁者を失くした。そして、義教には佐渡島への遠島の罰まで受けるという晩年は不運のどん底にあり、最期の状況は文献に残っていないという。栄枯盛衰の世の中はどう考えても厳しい。

世阿弥の著作が応援団子の心を惹きつけるのは、古典芸能の世界の話とはいえ、基本の大切さ、修業の厳しさ、芸に向き合う真剣さ、好奇心の旺盛さ、生きることの不思議さを伝えてくれることにあり、たとえ能楽のことは知らなくても、それが間違いなく人生の指導書になっているからであると思う。例えば、世阿弥は「長(たけ)」と「嵩(かさ)」という語によって能楽の修業の大切さを説明する。「長」とは、元々その人間が生まれながらにして持っている気品のようなものであり、「嵩」とは、修業による技術習熟によって身についた重みや深さのようなものとすると、芸能の世界では生まれながらに気位に恵まれない者が、恵まれている者に勝るのは難しいが、嵩を積むことにより迫ることは出来なくはない。足らざるところを如何にして身につけていくかが稽古であると、修業の大切さを説くのである。現代風にいえば、例えば、調査研究にまともに取り組みもせず、努力もしないで「私にこの仕事は合わない、向いていない」と逃げている若者には耳の痛い話ではないか。

もう一つ例を挙げる。風姿花伝の第五編「奥儀賛嘆云(おうぎにさんたんしていわく)」の中にあるこの文を味わっていただきたい。「能」を「社業」に、「風體」を社風に、「形木」を「基礎知識」に、「為手」を「社員」に替えて読むと、これもまた現代に通ずる大きな意味を持つ訓えではないだろうか。

『(前略)・・・。かように申せばとて、我が風體の形木の疎かならんは、殊に殊に、能の命あるべからず。これ、弱き為手(して)なり。我が風體の形木を極めてこそ、遍き風體をも知りたるにてはあるべけれ。遍き風體を心にかけんとて、我が形木に入らざらん為手は、我が風體を知らぬのみならず、他所(よそ)の風體をも、確かにはまして知るまじきなり。・・・(後略)』

(意訳)
『こう言ったからといって、わが社風の基礎知識を習得することを怠っていれば、これはもう社業を勤めることは出来ぬ。弱い社員であろう。わが社風の基礎知識を学び取り己のものにしてこそ、他社のことも分るというものだ。他社の研究に打ち込むなどと言い自社の基礎知識を学ばぬ者は、自社のことは当然分らぬだけでなく、他社のことなど分るわけがない。』(意訳の責は応援団子にある)

応援団子の独断と偏見で言うと、世に優秀な企業と称賛され、事実常に好成績を残している会社は、まさに「我が風體の形木を疎かにしない」という鉄則を、社長から社員までが一丸となって遵守している会社ではないだろうか。世の変化には柔軟に対応しつつも社業存続の基礎を忘れないということではないだろうか。ただ、だからといってどんな優秀な企業も未来永劫に万全安泰であるという保証はない。世阿弥の一生が物語っているように、末路は哀れと覚悟した 方がよい。繁栄を謳歌している企業が懸命に努力をしても、想像を絶する変化やあまりにもお粗末な事由で破滅していくのを、過去どれだけ見聞きしてきたことであろう。与えられた条件を去私の姿勢で見詰め、何が求められているかを洞察し、学んだ社風や基礎知識に照らし合わせ、全力を尽くして働き、その後は、淡々と天命を待てばよいのである。 (応援団子A)

参考文献
世阿弥著「風姿花伝」(岩波文庫 野上豊一郎・西尾 実 校訂)
小西甚一編訳「世阿弥能楽論集」(たちばな出版)
白洲正子著「世阿弥―花と幽玄の世界―」(講談社文芸文庫)
馬場あき子著「古典を読む 風姿花伝」(岩波現代文庫)



このページのTOPへ▲
<<ハートウェア応援団・第19回へ ハートウェア応援団・第21回へ>>


Copyright 2001 HEARTWARE Co. All Rights Reserved.