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第14回

◎ 勝海舟「氷川清話」江藤淳、松浦玲編
  (講談社学術文庫 2004年3月 第11刷)
  四部 時事数十言(は)「日清戦争論と中国観」から抜粋

 (その一)
  『日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰わないヂやないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分ったら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとっては最大の顧客サ。また支那は昔から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。・・(後略)』

 (その二)
  『一消一長は、世の常だから、世間は連戦連勝なんぞと狂喜し居れど、しかし、いつかはまた逆運に出会わなければなるまいから、今からその時の覚悟が大切だヨ。その場合になって、わいわいいっても仕方がないサ。今日の趨勢を察すると、逆運にめぐりあふのもあまり遠くはあるまいヨ。しかし、今の人はたいてい、先輩が命がけでやった仕事のお蔭で、顕要の地位を占めて居るのだから、一度は大危難の局に当たって試験を受けるのが順序だろうよ。・・(後略)』

 (その三)
  『講和談判の時かヱ、あの時はおれの塾に居た陸奥宗光が外務大臣として衝に当って居ったの関係もあり、かたがた当局へ一書を呈して注意もしたわけサ。おれの意見は日本は朝鮮の独立保護のために戦ったのだから土地は寸尺も取るべからず。その代り沢山に償金をとる事が肝要だ。もっともその償金の使途は支那の鉄道を敷設するに限る。
  ツマリ支那から取った償金で支那の交通の便をはかってやる。支那は必ず喜んでこれに応ずるサ。・・(後略)』


   前回、江藤淳の著作から学んだ時、江藤が「海舟語録」や巌本善治著「海舟餘波」、吉本襄著「氷川清話」を身近に置いていたことを知った。勿論、江藤自身も「海舟余波―わが読史余滴―」を書いて、勝海舟の政治人生の苦学を披瀝した。また、坂本龍馬や福澤諭吉について調べたときも、読んだ本の中に勝海舟の「氷川清話」は何度も登場したが、今までついつい読みそこねていた。先日、本屋で上述の講談社学術文庫本を見つけ、早速これを買って読んだ。そして今回は「氷川清話」の海舟発言を採り上げることにした。「氷川清話」は、明治32年頃に出版された吉本襄(よしもとのぼる)編の「海舟先生 氷川清話」を初めとする。吉本が勝海舟宅を訪ね、昔の思い出話やその時々の時事放談などをまとめ、全体を勝海舟のしゃべり口調で展開する、臨場感のある編集にしたとのこと。
  ただ、実際には海舟と直接会話をして収録したものとは別に、新聞紙上などに掲載された海舟の意見を、あたかも本人からじかに聞いたように編集されている部分もあるらしい。

   この「吉本本」には海舟が「そんな発言をするわけがない」とか、「これを黙っていることはないだろう」という、脚色あるいは省略の疑問が点在していたようで、昭和47年に講談社による「勝海舟全集」の刊行が始まると、編者に選ばれた松浦玲は、江藤淳らと共に以前からの疑問を徹底的に見直し、新たな「氷川清話」の編集を試みた。
  これを文庫本にしたときは、対象とする読者の違いを予想し、全集では詳述した「吉本本」との比較は省略して読みやすくし、さらに学術文庫本にするに当たっては「吉本本」の不明とおもわれる痕跡を消去したと、学術文庫本末尾の「解題」の中で断り書きをしている。「解題」にはそのほか「吉本本」との違いをまとめて説明し、文中にも史実に基づく「注」が挿入されていて読者には読みやすい。因みに「日清戦争論と中国観」は、勝海舟が日清戦争中から時の内閣を批判していたことを吉本が無視したので収録がなく、全く独自に話を組み立てることが出来たという。本が時間経過の中で変化していく様子を学ぶのも面白い。

   さて、本論になる日清戦争のことである。日清戦争は、明治27年(1894年)、新生日本が外国と本格的に戦った最初の戦争である。発端は、時の朝鮮政府を揺るがす農民の反乱(東学党の乱)を鎮定するに当たり、日本と清国が朝鮮政府を支援し、引き換えに朝鮮における主導的立場に立つことを争った戦争で、清国は「朝鮮は清国の属邦であるから日本の支援は必要ない」といい、事実、朝鮮は清国に平定の支援を求めた。日本は「朝鮮は独立国であり、清国の属邦であるとは認めない」と反論し、「朝鮮改革は日清共同で」と提案したが清国はこれを拒否した。内実を考察すると、これまでの歴史を背景に「成りあがりの日本に何が出来るか」と清国は考え、日本を威圧し政治力の弱い朝鮮を支配する戦略に出た。日本は日本で、この機会に世界列強国の仲間入りを果たすべく、清国との戦争での勝機を狙っていたのである。結果的には日本の宣戦布告は戦争状態突入後になってしまい、国際的には顰蹙を買ったようである。

   一方、欧米列強は低文明の東アジア各国に、高度な文明供与、戦力支援という名目で接近し、機会あらば自国の支配下に属させるという、いわゆる植民地政策を競っていた訳だから、東アジアの内々の喧嘩を眺めていて、少しでも介入出来れば干渉して利得をものにすべく外交活動を続けていた。当時の米、英、露、仏、独の外交方針は、米国がこの干渉に出遅れたことを別にすれば、日本、清国、朝鮮からのそれぞれの言い分を聞き、列強国間では状況の推移を見ながら三国を骨抜きにしようという魂胆であった。この帝国主義の匂いがプンプンとする欧米列強の政策を、植民地にされかねない東洋国側から冷静に全貌を眺めていたのが勝海舟であり、東洋には東洋だけで欧米列強の介入を避けて共に進展を図りうる道があると確信を持っていた。上述した海舟三つの意見は、第一に日清戦争に反対する総論、第二に連戦連勝に舞い上がる日本の成り上がり者への警告、第三に休戦交渉における日本の持つべき基本的なスタンスであり、これを抜書きしてみた。

   「その一」に採り上げた勝海舟の戦争全体に対する意見は、日清戦争を「犬も食わない兄弟喧嘩」と比喩し、欧米列強に気兼ねなどしないで「支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりをやるに限る」といったものである。現代なら容易に見えてくる状況も、時の日本政府の為政者や軍人には帝国主義こそが理想であり、欧米列強に伍することが到達点であったので、清国、朝鮮を東アジアの兄弟国というより、欧米列強にやられる前に清国、朝鮮を抑えつけることで、東アジアでの位置を確保しようとしたのであろう。勝海舟はこうした考えに反対した。両国からも 当然のことながら日本は嫌われた。それでも日本国は無理な考えを押し通した。日本もまた帝国主義を一直線に走りだし、太平洋戦争の敗戦まで無理に無理を重ねていったのである。そして独、仏、露は、勝海舟の心配したように清国の崩れに乗じて浸入していった。海舟の着眼した「支那五億の民衆は最大の顧客サ」という考えが日本為政者に強ければ、事態はまた随分と違ったであろう。

   それにしても「中国五億の民は最大の顧客」という表現を、本当に勝海舟がしたのだろうか。「顧客」ではなく「お客」と言ったとしても、海舟がこうした発想をしていたのには驚かされる。「中国五億の民を相手にビジネスを展開する」ことによって、日本を経済的に豊かな国にするという考えは画期的であり、今でも斬新な意見だと思う。余計なことながら、現在十二億とも十五億ともいわれる大中国の民に喜ばれるビジネスは、今日、日本の重要な命題であろう。海舟は幕末から明治維新までの波乱万丈の国事を底辺から支えてきて、財政困難がもたらす弊害の恐さが身に沁みており、財政困難という貧乏な境遇がいつも空論を導き出していたという苦い経験をしていた。
  「開港か鎖港か、尊皇か佐幕か、桜田門騒動、長州征伐、維新の大革新の大本を探れば、畢竟国幣空乏の一事に過ぎなかった」と海舟は言う。「戦争に勝っても軍艦が出来ても、国が貧乏で人民が食えなくては仕方がない。国家の生命に関する大問題がそっちのけではどうにもならぬ」と叱る。

   「その二」には、日清戦争における連戦連勝に舞い上がる成り上がり者に、「戦は勝つときもあれば負けるときもある。負けたときの覚悟もしておかねばならないものだ」と警告しているのである。成り上がり者とは時の為政者であり陸海軍の将校たちである。海舟から見れば「先人の苦労のおかげで今日の地位を得たことを忘れ、空論を発してふんぞり返っているような奴は、一度、試験を受けてみよ」という怒り以外の何ものでもなかったのである。
  海舟は若き日、ペリー来航で大騒ぎをしている幕府で、上司に「堅船を造り貿易を盛んにし、強国となって国防に当たるべき」との建白書を上呈した人である。後に、長崎に海軍伝習所を作り、神戸に海軍操練所を設けて若者を養成していたのも、国の将来に備える具体策であったろう。海舟の構想は、どうやら東洋の将来に向けられていた。
  日清戦争の交渉に当たって戦敗国たる清国使節が来日するのが当然だと、形式にこだわる日本為政者や軍人のスケールの小ささに辟易している様子が伺える。

   「その三」では、嘗て神戸の海軍操練所で教えた、時の外務大臣陸奥宗光に対しての苦言というか、挑戦のようにも思える。何か建白書を書いて日清戦争後の講和条約締結について、日本のとるべき基本的なスタンスを海舟は提案したと思われるが、まず戦争目的は朝鮮の独立保護であったから領土の割譲を要求しないこと、賠償金を貰い、貰った賠償金で支那中に鉄道網をはりめぐらせること、これなら賠償金を出す支那にも理屈がつくというものであった。前出の江藤淳は著作「海舟余波」で海舟外交に触れ、ハロルド・ニコルソンの「外交」を例にあげて、外交には「武人的」と「商人的」があり、海舟外交は、「武人的外交」を心得た「商人的外交」だという。商人的外交というのは、「敵対者の間でお互いに妥協する方が、敵を完全に潰滅するよりも、普通、利益があるのだ」という仮定に基づくというもので、武人派は威嚇を生む武力の能力を過信し、商人派は信頼をもたらす信用観念の能力を過信する。海舟はこの両方を理解しているというのである。

   その例として江藤は、西郷隆盛との江戸城明け渡しの交渉を挙げる。海舟の描いた最終図は徳川慶喜の新政府復帰であり、駆け引きで表向きの成果を確保するという単純なものでも、道徳的な観念論を振り回すものでもなく、新政府と対等の立場を作ろうとし失敗したという。海舟の日清戦争講和時の考えは、「列強に介入させず、三国の共存共栄を図ることを誠心誠意説けば、意は必ず通ず」というのであるが、果たしてどうであったろうか。結果的には日本の為政者は、昭和20年の敗戦を迎えるまで中韓関係を誤り、それから六十年を経ようとする現在、今なお東アジアには、日本への不信感が強く存在している。この根っこの不信を払拭しない限り、経済的な結びつきが深まっても、いつも胸中わだかまりを持ちながらの関係を続けていくことになる。気が重いことである。東洋各国の学者による客観的な歴史の実証、教育によるアジア共通認識の敷衍、各国各階層の人達によるコミュニケーションの活発化を、時間をかけて一歩一歩前進させることだと考えている。

   歴史書を読んでいて、「過去を見る目が新しくならない限り、現代の新しさは本当には掴めない」というフレーズに出会った。事件や事象はどの観点から見つめるかによって、意見が異なってくる。福澤諭吉の言に、意見の相違は「暫くその向かう所に任せて、他日双方帰する所を一にするの時を待つべし」とある。福澤が「暫くその向かう所に任せて」というのは、「ただ黙って待っていれば良い」わけではない。お互いに主張し合いながら、問題点を確認し合いながら待つのである。今、中国における尖閣列島の石油調査に対する日本のとるべき態度が云々されているが、勝海舟や陸奥宗光を思い、福澤諭吉を思い、日本のとるべき姿勢を考えていきたいものである。軽薄でエキセントリックな態度だけは誰も許しはしないだろう。「自分ばかり正しい、強いというのは日本のみだ。世界はそうは言わぬ。」と心配する勝海舟の心の声が聞こえて来るようである。(応援団A)

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