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第13回

◎ 江藤淳著「夜の紅茶」(北洋社 1978年9月 第28刷発行)

  『(前略)人生はだれでも、男女の別なく、多くは青春のころに、なんらかの根源的な欠陥の自覚に達し、それぞれの積木を積もうとしはじめるものだからである。そして、それと同時に読書の習慣がはじまる。あたかも言葉をもって自分に内在する欠落を埋めようとするかのように。あるいは、表現しようとする自分の悲しみや憧れ、怒りを、他人の表現したもののなかに探し求めようとするかのように。読むことを覚えるということは、社会が教育を通じてその成員に強制する行為である。しかし、読書に没頭するという行為のなかには、これよりもう少し深い意味が隠されている。つまりそれは、なにがしかの危機の自覚から生れ、それを乗り越えようとする、自分にも充分には意識されていない意欲に結びついた行為である。したがってそれは、決して受身ではあり得ない。むしろ能動的で積極的な精神の営みであり、生きる意志の反映だとさえいえるのである。(後略)』(W「読書について」1から抜粋)


   上述の「読書について」には、江藤淳が僅か四歳半にして母を結核で亡くし、その衝撃と不安から逃れるように始まった読書習慣のことを、「それは積木遊びに飽きたころからはじまり、自分の中に、母の死による欠落の自覚が定着するのと、ほぼ同時のことであった」と書いている。そして「母から発せられる慈愛の欠落を自覚し、そこに内在する悲しみや憧れ、怒りの表現を他人の表現するもので、つまりは読書で、それを埋めようとした」のである。読書の動機とは、「人それぞれの個別の事情はともあれ、多くは青春の頃に危機を乗り越えようとして現れる能動的な精神の営みであり、生きる意志の反映である」と江藤は考えたのである。また、読書を自らの体験から
「孤独と不安を癒してくれる愉しい友達であり、過去の時間の重みと東西の世界の広がりを、身をもって教えてくれる経験の豊かな友達であって、この友達はおしつけがましくもなく、狭い不安な世界から自分を解放してくれた」という。入学して間もなく少年は、先生の理不尽な叱責で小学校が嫌いになり登校を拒否するようになった。早退した帰り道に買ったパンと牛乳を納戸の中に持ち込んで、納戸に積まれていた父親の「明治大正文学全集」や「高浜虚子集」、「谷崎潤一郎集」を読んだという。本章は、ませた少年が長じて述べた読書についての意見である。

  江藤淳は本名江頭敦夫という。昭和7年(1932年)12月25日、東京府の大久保百人町に江頭隆の長男として生まれ(但し、文中では以後も江藤という)、父は海軍中将江頭安太郎の長男、三井銀行本店営業部に勤務、母廣子は海軍少将宮地民三郎の次女という海軍が縁の一家である。前述のように母廣子が早世し、江藤自身も小学校時代は肺門淋巴腺炎を患う病弱な少年であった。新しい母、日能千恵子は青山学院専門部英文科教授日能英三の長女であり、江頭隆に嫁いで二子を設ける。江藤にとっては妹初子と弟輝夫である。昭和16年、新しい母の勧めもあって江藤少年は、鎌倉極楽寺の義祖父の隠居所に転地療養することになる。この頃義祖父はすでに青山学院を退いて、読書と鎌倉彫と銭湯通いという自由な生活をしていた。一個の男子として認めてくれた義祖父との生活で、江藤は勇気を取り戻した。嫌いだった学校にも通い成績も驚くほど上がった。英語の基礎をしっかりと教えたのも、夏目漱石のことを教えたのも義祖父であった。戦争も激しくなって、江頭一家はその後義祖父のに疎開してくるが、義母の病気、東京大空襲で百人町の家が焼失するなど、苦難が次々と江藤を襲った。そんな挫折、克服を繰返しながらも最後まで闘い続け、後に文学界に確たる位置を占めた江藤淳の著作を採り上げ学んでいきたい。

  江藤の文学界への登場は、昭和30年「三田文学」11月号、12月号に「夏目漱石論――漱石の位置について――」(上)、(下)を発表した時にはじまる。これは三田文学の編集者山川方夫の勧めによるもので、翌年にも山川の後押しもあって同じく7月号、8月号に「続・夏目漱石論――晩年の漱石――」(上)、(下)を発表した。
  これで評判を得、同年11月には山川の手を借り東京ライフ社から一冊の本として世に出された。その後江藤の活躍は文壇の注目を浴びるところとなり、多くの著作を残しているが、明治維新の勝海舟と西郷隆盛を書いた「海舟余波(わが読史余滴)」、「南州残影」、文壇の先輩を書いた「荷風散策―紅茶のあとさき」、「小林秀雄」など、それぞれの核心を江藤流に抉り出した著作は好評を博した。前出の山川方夫のことを書いた「山川方夫と私」では、江藤の友を想う心の深さにうたれる。しかし、江藤の代表作といえば、ライフワークとなった「夏目漱石とその時代」であろう。昭和41年から書き下ろし、昭和45年に発表した第一部、第二部は、その年の菊池寛賞と野間文芸賞を受賞した。そして、二十年を経て平成5年に第三部を、平成7年に第四部を発表したが、第五部に当たるものは新潮に連載中に自ら命を絶って未完となった。後に第五部は未完のまま発表された。

   随筆集「夜の紅茶」は、昭和47年(1972年)2月に発刊された。ちょうど「漱石とその時代」第一部、第二部の執筆していた前後の時期に書き溜めたエッセーであり、本の「あとがき」に、「ひかえ目にいってもなかなか骨の折れる評論や論文を書いた後、満ち足りた自分だけの時間、スタンドの燈が机の上に柔らかくひろがって、いま、お前はお前自身にかえっている、とささやきかけて来るような時間、遠い音楽に耳を澄ますような気持ちで随筆を書くのは愉しい」ことが記されている。六十編に近いエッセーを、「海外旅行での出来事」、「過去の思い出」、「日常生活からの意見」など、七つのブロックに編集し収録している。この「読書について」は、四つ目のブロックに「場所と私」と一緒に収められており、母との死別、新しい母、納戸での読書、病、敗戦の悲劇、納戸の焼失、鎌倉極楽寺から東京の十条中原町への移転、貧しい生活のはじまりなど、子供の頃からの辛い思いを克服して、ともかくここまでやってきたという江藤の心情がこの随筆集には吐露される。「場所と私」のなかには、世に認められ、小屋と称しているが軽井沢に建てた別荘での回想である。嘗て軽井沢に友人の父親の別荘で自死を考えた、心身共に逼塞していた当時を振り返る。いずれにしてもこの四番目のブロックは随筆集の主要部と考える。

  「読書について」が書き上げられたのは昭和46年12月である。年末が嘘のような静寂のただよう夜の部屋、膝には毛布をおいて、思うままにペンを走らせている。江藤は三十九歳、傍らには慶子夫人がいて、夫人の入れた香り高い紅茶が湯気をのぼらせ、これを啜りながら執筆している。そんな情景をあれこれ想像してみるが、今はもう二人ともこの世にはいない。「書から学ぶ」(第11回)では、江藤の「夏目漱石論」や「漱石とその時代」には随分お世話になった。そして、江藤が何歳頃に、その「漱石論」を書いたのかを注意していた。二十代に書いた江藤の漱石論は、その時代の漱石論が漱石のそのものを見るよりも、ある区分に整理統合したり、時代の考えに均質化したりして、ある種の権威というフィルターを通して論じられていることに猛然と反意を示した。例えば、漱石といえば「則天去私」という説を信じなかった。本書でも漱石は登場するが、ここでは漱石の来し方をいとおしみ、人は歩んできた人生それぞれに重みがあるからこそ作家は書くのだといい、本質は変わらずとも時間と共に増す主張の重みを感ずるのである。「漱石とその時代」第五部を書き始めた時、六十四歳に達していた江藤は、周囲からは、「金のなる木」と思われ「生活の心棒」になっていた漱石に、この上ない愛惜の念を抱いていた。

  平成10年3月、幼少時にこの人なくては成長し得なかった恩ある義母を亡くし、11月には分身ともいうべき慶子夫人も癌で逝った。翌年、分身の最後を看取った手記は「妻と私」として文芸春秋の五月号に掲載された。その後、文芸春秋から本となり、今は文春文庫版が出ている。本文のほか石原慎太郎や吉本隆明、福田和也の追悼文と、未完に終わった「幼年時代」、武藤武史編の年譜も一緒に収録されている。これによると江藤は慶子夫人に癌であることを告げなかった。常に病床の側にいて、慶子夫人が気分のよいときは出来る限り話し合い、慶子夫人の刻一刻と迫ってくる死に対峙して、極めて冷静に最後まで一緒になって病と闘い続けた。自らも前立腺炎の症状が廃血症にまで悪化して、医者が治療を促していたが、「無事に葬儀を終えるまでは」と堪え、その後直ちに入院し、壊死した皮膚を切除する大手術にも堪え、その後の皮膚移植の手術にも堪え、平成11年1月8日に退院した。そして、体力回復後、夫人の遺骨を5月に青山墓地に納めるところまでを手記にしている。この手記の「あとがき」に、支え、励まし続けてくれた文芸春秋の方々への謝礼が書かれているが、友人の支え、知人、親族の励ましも江藤には忘れられなかったであろう。石原新太郎の追悼文「さらば、友よ、江藤よ」を読むと胸が詰まる。

   ウェブをサーチして江藤の「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。・・・(中略)・・・乞う、諸君よ、これを諒とせられよ」の遺書を見た。平成11年7月21日江藤淳と記されている。あれだけ気丈に分身の葬儀も済ませ、病と闘った同じ人が何故死を選んだのか。
  この遺書からは、江藤の「ここまでで、もういいでしょう」という声が聞こえてくるような気がする。随筆集「夜の紅茶」に「寒椿一輪」というエッセーがあり、網野菊について書いている。そこに「(前略)・・・私はだいたい甘えている人間がきらいである。その反動で、淋しさを内に隠してつつましく生きている人を遠くから見ていると、願わくは自分にもあのような勁(つよ)さがのこされているように・・・(中略)・・・子供もなく、家内にも先立たれた孤独な老年をときどき想像することがある。そのとき自分は頑なにならず、しかも誰にも甘えずに、凛として生きていることができるだろうか。・・・(後略)」と、網野菊の見事な立ち居振る舞いを見て、己の先行きを思う文章がある。江藤淳は苦しみを克服して敢然と生きてきた人である。その人が、「形骸化した」と、己に処決の断を下したのである。「これを諒とせられよ」の書を残した底に、江藤ではなく、人間の弱さが見えてこないか。

   実は、読書について書くのだから、先哲の残した「読書は満ちた人をつくる」とか、「読書によって熟考の習慣がつかなければ、他人の頭を借りたに過ぎない」という箴言を肝に銘じ、「心豊かな人の良書の選択について」、「読書後の思考について」を探っていくような結論に到達するのではないかと最初は考えていた。だが、書いているうちに江藤の幼い頃からの自己確立の精神に惹かれた。世間に存在する定説、常識、慣行、威圧などに真正面から挑む江藤の確固たる信念と勇気に圧倒された。振り返り見て、己の軽薄さに落胆を覚えるが、とはいえ、一歩も先に踏み出せないのでは困る。曲がりなりにも自己決定能力を磨いて、一歩ずつでもいいから前進することが大切であろう。そのためには、のべつまくなしに自分を顧みること、甘えてはいないか、頑なになってはいないかを問いながら生きていくことなのだろうと考えた。江藤のように「万事に休する」ことがあるかも知れないが、その時はその時である。それまでは懸命に生きていくしかない。読書にはある種の恐ろしさがつきまとうことを覚悟しなければならないが、読書を止める訳にはいかない。(応援団子A)


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